パースペクティブ (4)
「えっ」
突然のお告げに驚いてぼくは占い師の顔を見たが、彼女は卓上のカードをじっとのぞき込んだままだったので、彼女の髪の生え際がうっすらとピンク色なのがよく見えた。そのピンク色と子どもを授かるという宣告とが目の前で混ざり始めると、テーブルの上に置かれたカードの絵柄は、胎内で目覚めを待つ赤子のように見えてきたのだった。
「子どもって、ぼくの子どもですか?」
「そうです」
「いつ頃のことなんでしょう、それは」
「もうすぐですね」
「もうすぐ!」
子どもができることすら想定しなかったのに、もうすぐとは。ぼくはグラグラと足元が崩れ落ちるような気がして、土の上で座りの悪い丸椅子を動かしてなんとか安定するよう落ち着けた。
「相手は誰なんですか?」
「それはわからないね」
まさか別れた彼女なのだろうか。だが彼女とはもう一年近く音信不通の状態である。それとも、もしかしてぼくたちは復縁するのだろうか。別れたりよりを戻したりするカップルもいるそうだが、ぼくは今まで誰かと復縁したことはない。出会いと別れは一回きりのギフト、そんなふうに考えたことは一度もないが、今度という今度はその慣行が破られ、ぼくたちはもう一度付き合うことになるのだろうか。だとしたら、あの猫はどうなるのか。ぼくと彼女の間にしゃしゃり出てくるあの猫がいるうちは、彼女との復縁など夢のまた夢、到底覚束ないと思うのだが、それともそんなことは瑣末なことだと、ベッドに上がり込んでくる猫に対する寛容をぼくは求められているのか。
「知りたいかい?」
「え?」
「お相手ですよ、子どもの」
気がつくと占い師は上目遣いにこちらを値踏むように見ていて、だがその瞳の奥には、さあどうする、知りたいのか知りたくないのか、どっちなんだいと迫るような気迫を感じる。これは勝負どころなのかもしれない、とぼくは相手の圧に負けぬよう彼女を睨み返す。お相手、などと丁寧な言葉を使われるとかえってゴシップ紙的ないやらしさが増すようで不快ではあるが、ここはグッと堪えなければならない。なにせ、新しく生まれてくる子どもの母親について、その情報が聞けるか聞けぬかの瀬戸際なのだ。短気は損気、大事の前では小事に目をつむらなければならぬ。
その時、ジリリリと案外大きな音で卓上の目覚まし時計が鳴り始めた。目覚まし時計の音に驚いたのか、樹上の鳥たちが鳴き始め、あたりは一時騒然となったが、占い師は落ち着いたもので、こちらから視線を外さずテーブルの上に手を伸ばすとバシンと時計を打って黙らせた。
「お客さん、時間ですけど、延長しますか」
三十分二千円という当初の約束を思い出し、もう三十分も経ったのか、まだ十五分くらいじゃないのかと訝しんで時計を見たが、そもそも開始時刻がいつだったのか覚えていないので、三十分経ったかどうか検証できない。熟練の占い師というものは、終了時間の間際に続きを聞きたくなるような占い結果を告げるのだということを、ぼくは知らなかった。子どもを授かるという宣告を聞いた時点で、ぼくは相手の術中にはまっていたのだ。ここまで来たら、追加料金を払って続きを聞くのが筋というものだろう。
だが、とぼくは思った。全ての占い結果を知って我が子と対面するよりも、細部を知らぬままその時を迎える方が、未確定の未来を楽しむことができるのではないか。いうまでもないことだが、占いとは未来に存在する無数の可能性の中から、その一つを掬い上げる行為である。この世界には確定した未来というものはなく、今この時も、未来は常に揺らぎ続けている。彼女が告げたのは、現時点における、ぼくの将来の可能性の一つに過ぎないのだ。そう考えれば、追加料金を払って占い結果を聞くことにどれほどの意味があるだろう。むしろ揺らいでいる不定形な未来に飛び込む方が、よっぽどセンス・オブ・ワンダーに満ちた、ワクワクする生き方なのではないだろうか。確定事実を厳格に履行する官吏より、向こう見ずな冒険者たれ。それがぼくのモットーだ。
「いや、大丈夫です」
ぼくがきっぱりと告げると、占い師は恐ろしい目つきをしてこちらを睨めつけたが、そこはプロフェッショナルとしての矜持があるのだろう、わかりあした、ではこれにてと猫撫で声を出して卓上のカードを集めると、トントンと整えて元の位置に置いた。
「お支払いは電子決済でお願いしてます」
「えっ。現金ではダメですか」
「お客さん、まだ現金使ってるの?」
占い師は呆れたような声を出してぼくを見たが、こちらとしては現金払いでないと困る。電子決済サービスの提供会社は、個人情報は厳重に保護されます、お客様の購買情報が外部に漏れることはありません、などと嘯くが、そんなのは出鱈目で、今まで外部に流出しなかった個人情報などないのである。ビッグブラザーによるスーパー監視社会、などという陰謀論を信じてはいないが、購買履歴がその人のパーソナリティーを映す鏡である以上、見ず知らずの第三者にそんな重要な情報を渡すわけにはいかない。本当ならスマホだって持ち歩きたくないくらいなのに、電子決済と聞いて呆れるのはこっちの方なのだ。
「電子決済、使ったことがないんです」
「お客さん、あれですよ、アプリをダウンロードしたらすぐに使えますよ」
「すぐったって、銀行口座と紐づけるとか、やらなきゃいけないことがいろいろあるでしょう」
「便利ですよ。なにせ非接触だし」
「非接触ですか」
「おや、非接触は嫌なの」
「今日び、何でもかんでも非接触でしょう。そういうの、よくないと思うんです」
「だってあんた、ウイルスがあちこちに付くってんだから、しょうがないでしょう」
「現金払い、やっぱりダメですか」
「そりゃあ、ダメってことはないけどさ」
占い師は渋々といった様子でテーブルの下からポーチを拾い上げ、中からがま口を取り出した。
「領収書は出せませんよ」
「結構です」
「では消費税込みで二二○○円になります」
「消費税かかるんですか?」
消費税は事業者の年間売上高が一千万円を超える場合に課税されるはずだが、そう思いながらぼくは財布から千円札を二枚と百円玉を二個取り出した。
毎度あり、と声をかけられてぼくは席を立ち、ネットで簡単な占いをやったことはあっても、実際に占い師に目の前で占ってもらったのはこれが初めてだったが、緊張感があって案外悪くないものだと思いながら、再び樹々をかき分けて前進を始めた。
やがて花屋の深奥に達したぼくの目の前に、レジカウンターが現れた。カウンターの向こう側では、エプロン姿の女性が鋏で花の茎を切って長さを整えていた。ラナンキュラスやバラ、カーネーションなどがカウンターの上に並べられ、美しい花束へとまとめられていく様は、輝かしいステージに出ていくのを舞台袖で待つ女優の姿にも似て、見ているこちらも自然と胸躍る心地がしたが、そうして店員がちょうどいい長さに整えた花を束にして持ち、完成した花束を想像しながら仔細に眺めているのを見ると、かつてバレンタインデーに彼女へ花束をプレゼントした時のことが思い出された。
(つづく)