坂本龍一のこと
こんな動画を見た。岡村靖幸が、坂本龍一が愛用していた音楽機材を移設した音楽スタジオを訪れるという動画。スタジオは、アーティストたちが実際に機材を用いて作品制作を行える場所として来年開業予定だそうだ。
坂本龍一が亡くなってもう一年以上になる。
中学から高校時代の多感な時期に、僕は彼の音楽や、彼の存在にとても大きな影響を受けてきたので、亡くなった時はとても何かを言える状態ではなかった。自分のなかの何かがぽっかり欠けたような感覚とはこういうことをいうのかと実感した。
僕が初めて龍一の音楽に触れたのは、中学入学を控えた春休み、母親が近所のレンタルビデオ屋で借りてきた一本のビデオだった。そのアニメーション映画で、彼は音楽監督をつとめていたのだった。
それまでテレビで流れるようなポップミュージックしか知らなかった地方の子供にとって、その音楽は衝撃的だった。自分が何かまったく新しいものに触れている、という感覚があったし、もっと言えば、自分のなかで何かが始まったのはあの時だったのだろうと思う。そして、その何かは今も続いている。
僕が初めてリアルタイムで龍一のアルバムを買ったのは、『ハートビート』だった。彼は当時Virgin Recordsと契約していて、そのファッショナブルなアートワークや、NYのハウスミュージックから中東のエスニックなサウンドまでそれこそワールドワイドな収録曲たちに、まだ見ぬ新しい世界の扉が開いたような気持ちになったのだった。1曲目のタイトルナンバーは、今聴いても十分新しいと思えるサウンドだ。
1992年のHeart Beat Tourは人生で初めてのコンサートだった。親にせがんで、平日の夜に大阪城ホールまで連れて行ってもらった。30年以上前のことなので記憶が定かではないのだけれど、ピアノソロで始まり、2曲目はトミイエサトシとの連弾で東風をやり、3曲目が戦場のメリークリスマスだった。静かなピアノソロであの有名なメロディーが演奏され、会場中が演奏に耳を傾けるなか、やがてブリッジのパートに入ると徐々にバックの演奏が加わり、厚みのある音とともにステージの幕がゆっくりと上がっていくように、美しく荘厳な音楽へと変化していったとき、僕は生まれて初めて純粋に音楽の力だけで涙を流していた。心の奥底が揺さぶられる、それはとてもエモーショナルな瞬間だった。
そんな僕もやがて大学生になり、社会人になると次第に坂本龍一の音楽から離れていき、「LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999」を武道館で観たのを最後に、僕はハウスやトランスなど、違う音楽を追いかけるようになっていった。『Sweet Revenge』以降のアルバムにピンと来なかったのも事実だ。たぶん、僕のなかの新しい世界への扉を開くという彼の役目は終わりを迎えたのだろう。彼が開いてくれた扉を抜けて、僕は次の世界へと足を踏み出した。そうして、それから20年近く、僕が龍一の音楽を聴くことはほとんどなかった。
彼が大病を患い、それでも音楽活動を続けていたことはニュースで知っていた。だがあるときネットで見た龍一の姿が驚くほど痩せ細っていたのを見て、その彼が今どんな音楽を作っているのだろうと思い、とても久しぶりに彼のアルバムを買って聴いた。『async』というアルバムだった。それは龍一らしい美しいメロディーの曲と、音響系のような前衛的楽曲の入り混じったアルバムだったが、彼の本質は昔と変わらなかった。もちろん、長い時間を経ての変化もあった。各曲では一つひとつの音色そのものへより意識が向けられているように感じたし、小品というか、どこかプライベートなテイストがあった。それが老いによるものなのか、それとも病を体験した後の彼の心境なのか、僕にはわからない。ただ、静かなサウンドのなかには、確実に、彼が若い頃から備えていたアグレッシブさが感じられた。体力が落ちれば気力を失うのも自然なことだ。それを考えると、龍一の楽曲の奥深くに変わらないアグレッシブさが宿っていたことは、驚くべきことだった。
2020年に再び癌を患い、ステージ4を公表した後の彼の姿は痛々しくて直視できなかった。コンサートどころか、おそらく、一曲弾くのも相当難儀だっただろうと思う。それでも彼は音楽を作り続け、演奏を続けた。
彼の最晩年の作品である『Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 12122020』や『12』が、僕は大好きだ。特に『Playing the Piano』では、おそらく体力的な制約だったのだろうが、とてもゆっくりとしたテンポで往年の名曲群が演奏されている。どれほど辛い状態だったのか、それとも束の間の小康状態だったのか、この録音をしていたときの彼の体調を僕は知らない。それでも、ここには、ひとつの境地に達した音楽家の深く、輝かしい演奏がある。とても穏やかでささやかだが、深いところから静かな波紋のように心に響いてくるものがある。
「Ars longa, vita brevis」(芸術は長く、人生は短し)とは、龍一が好んだ言葉だそうだ。だが僕は、人生は短いとは思わない。人生は永遠だ。
岡村靖幸の動画を見て、ふと龍一のことを思い出し、この文章を書きました。彼と出会えてよかったと思います。ありがとう。
少し早いですが、みなさんやご家族の方々におかれましては、どうぞ素敵なクリスマスをお過ごしください。