パースペクティブ (3)
テーブルの前の丸椅子に座ると、女性は上目遣いでぼくを見たが、彼女の目元がどことなく死んだ祖母に似ているような気がして、ぼくは気味が悪いと思うこともなく神妙にしていた。
「道に迷ったんだね?」
想像していたよりやや高い声で女性が尋ね、ぼくはうなずいた。女性は金と黒の編み込みが入った灰色のセーターを着ていて、化粧はそんなに厚くなかったがマスカラが少し取れて目の周りが黒く、彼女の顔を見ているうちにぼくの死んだ婆さんはこんな顔をしていただろうか、さっきの印象は何だったのだろうと不思議になってきた。
「どうしてここへ来たんだい?」
「植木鉢を買いに来たのです」
「こんなところに植木鉢なんてあるわけないだろう」
「いえ、売っているはずです。だって以前もこの店で植木鉢を買ったんです」
「前売ってたからって、今も売ってるとはかぎりゃしないよ」
女性とやりとりをしているうちに、ぼくは自然と動悸が激しくなり、気分が高揚していくのがわかった。久しぶりに人と話すものだから、生きた人間とのやり取りがこんなに刺激の強いものだとは思わなかった。最後に誰かと会話をしたのは、日曜の午後にスーパーのレジでお会計をした時だ。ぼくはスーパーで買い物をする時はいつもセルフ会計レジではなく、通常のレジに並ぶことにしている。セルフレジだと本当に店員と言葉を交わすことがなく、一週間誰とも話さずに過ごしてしまうからだ。
「植木鉢はどこに売ってますか?」
「そんなの、あたしに聞くんじゃないよ。あたしゃここの店員じゃないんだから」
「じゃあ、店員さんはどこにいるかご存知ですか?」
「それなら、あれ、ちょっと占ってみますか? 三十分三千円なんだけど、お兄さん初回だから二千円にまけといたげるよ」
占い師の女性はぼくをまた上目遣いでじろりと見た。
「まけてくれるんですか」
「今回だけだよ」
目覚まし時計の上部にある黒いボタンをぱちんと押してから、女性はマスクを顎までずり下ろすと指先をちょっと舐め、テーブルの上のメモ帳を開いてページを繰った。
「お兄さんの名前は?」
「名前?」
「そうだよ。名前がわかんないと占えないじゃないか」
「そうなんですか?」
「そういう占いなんだよ」
何を馬鹿なことを言ってるんだという顔をして、女性は顎のマスクを引っ張り上げた。
「マルヤマと言います」
「えっ?」
占い師が怪訝な顔をしてこちらを見たので、ぼくも不審に思って彼女を見返した。
「お兄さん、それ本当にあんたの名前かい?」
「えっ?」
生まれてこの方、お前の名前は正しいのかと言われたことがなかったので、ぼくは驚いた。
「本当も何も、これがぼくの名前ですよ」
「いやあ」
占い師は手帳に何かを書きつけてから何度も首をひねった。
「本当かねえ。俄には信じがたい」
「でも、生まれてからずっと、この名前なんです」
「そうなのかい?」
「それだったら、ぼくの名前は何なんですか?」
「そんなのあたしゃ知らないよ」
「どうしてそういうこと言うんですか?」
「でもマルヤマだなんてねえ」
「あなた、ぼくの本当の名前を知ってるとでもいうんですか?」
そう問い詰めると、いや、まあ、あんたがそう言うならそれでいこうか、などとぶつぶつ言いながら占い師は手帳を閉じると、テーブルの上に積まれていたカードの山を掴んでシャッフルし始めた。
「タロットカードですか、それ」
「いや、うん」
生返事をしながら占い師はシャッフルを続け、やがてえいと掛け声をあげて一番上のカードを取り上げると、机の真ん中にひっくり返して置いた。カードの中心部には楕円があって、その中に見たこともない模様が青い線で描かれていたが、その模様を見ているうちにぼくはあの猫、彼女の部屋でナポレオンのように振る舞っていたあの猫をことを思い出した。
「あなたには転機が訪れています」
カードを見つめて発した占い師の第一声に、ぼくはがっかりした。パンデミックこの方、転機を迎えなかった人など世界のどこにもいやしないだろう。そのような誰にでも当てはまることを言われては困る。今回のパンデミックは人類全体が等しく迎えた転機なのだ、今までの暮らし、今までの社会システム、因習、仕事、人間関係、その他もろもろ一切合切、これまで人類が築き上げてきた文明そのものがその在り方を問われる、そのような巨大で広範な衝撃なのだ。だがぼくの不満をよそに占い師はもう一枚カードをめくり、表にしてさっきのカードの上に重ねて置いた。今度はこぼしたインクの染みのような模様が描かれているが、飛沫の粒の大きさや形があまりにリアルなので、ジャクソン・ポロックのようにこの婆さんがカードにインクをこぼして描いたのではないかとぼくは訝しんだ。
「これを見て何を想像しますか?」
占い師はカードに視線を落としたままぼくに尋ねた。
「ロールシャッハ・テストか何かですか、これは?」
「占いです」
「そうですか」
「ロールシャッハ・テストのことは知っています。でもこれは占いです。第一、ロールシャッハで使われる模様は左右対称でしょう、でもこれは非対称。縁もゆかりもございません」
「占いなんですね?」
「お兄さんもくどいね、早よお答えんなさい」
「正直に答えるんですね?」
「そうね、自分の心に問いかけるのだから、正直なほどよろしい」
正直にと言われると、途端にプレッシャーがかかるような気がして、ぼくは唾を飲み込んだ。これまで公言したことはないが、ぼくは自分の本心を誰かに言うのがとても苦手である。他者に自らの本当の気持ちを伝えるとき、大袈裟に聞こえたら申し訳ないが、ぼくは自分の全存在を賭けてそれを口にする。これが自分の全てだ、どんな留保もエクスキューズもない、これ以外はないという思いで自らの意見を伝えるし、それ以外の方法で自らの正直な気持ちを吐露することはできない。相手を斬るか、こちらが斬られるか、自分の身を顧みず、捨て身の覚悟で相手の懐に飛び込む薩摩示現流の使い手のように、ぼくは本当の気持ちを口にするのだ。だからたとえ行きずりの占い師相手であろうと、自分の本心を正直に開陳することは全身全霊でもってなされなければならない、ぼくにとってはそれほどの一大事なのである。
「言ってもいいですか」
「ああ、お言いなさい」
「インクの染みに見えます」
どこかで鳥が鳴いた。甲高い鳴き声が緑深いジャングルに響き渡り、春だというのにここは蒸し暑い。ぼくは丸椅子に座ったまま、額にじっとりとしている脂を手の甲で拭った。もうダメかもしれない、そう思いながらぼくは顔を上げられない。沈黙が長く続けば続くほど、全身全霊をかけたぼくの正直な意見は何かにそぐわなかったのだ、という思いが強くなっていく。鳥の鳴き声はキュエーッ、キュエーッと二回続くと小休止を挟み、またキュエーッと始まる。姿は見えないが鳴き声だけははっきりと聞こえる。鳥の存在。占い師は押し黙ったままだ。ああもう何でもいいから、ぼくの発言に不適格の烙印を押してほしい、永遠に宙ぶらりんな状況で捨て置かれても困る、ダメならダメとそう言ってくれた方がまだマシだ。そう煩悶しながらぼくがジャクソン・ポロックのカードを見ていると、婆さんはさっと次のカードを手に取って場にオープンした。
「あっ」
カードにはクレヨンで塗りつけられたような茶色の中に赤と黄色が混ざった生き物が描かれていた。
「あなた、子どもを授かります」
(つづく)