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レビューする私たちは誰のために書いているのか
今、私はランニングシューズのレビューをしようとしているが、そのような製品のレビューは動画サイトを覗けばいくらでもアップされている。各社各様の製品レビューが提供され、そのレビューを視聴して楽しむことがエンタメとして成立している。何か便益を得るためのアイテムを手に入れることが唯一の目的と考えていた。ただ、昨今の私たちの消費行動を見るとそれにとどまらないことが明らか。何かを買うという行為ではなく、その購入したものを使用/体験して、その批評を他者に伝達するまでのプロセス。それ自体がエンタメとなっているようだ。消費社会とはただ与えられたものに満足するような薄っぺらなものとして批判的にとらえられていた。でも実際には商品を軸としてコミュニケーションが駆動されるという興味深い現象。
旧来では読書や映画鑑賞のような文化的な香りのするものは他者との対話ツールとして機能することは認知されていた。そして今、消費社会が成熟されてどのようなアイテムでも対話が始まるものであるということを高度情報化社会が、時代が、証明した。
私はあるランニングシューズを購入してレビューしようとしている。単純な消費活動にとどまらず、豊かな体験の記憶を記す行為だ。その行為がどのようなステップで進むかはある程度の青写真がある。まずは私がどのようなライフスタイルをしているか、どのようなシューズを選択しているのか、そしてどのように活用してどんな所感を持ったのか。つまりそのランニングシューズをフックにして自分自身を語り、表現することになる。そして誰かと繋がって、共感/共鳴することを期待する営み。
読書、映画に加えて、音楽、ゲームなども実体がなく、今の手応えを体験として表現しなければ何も残らない。その焦燥感から我々は過去から熱心にレビューしてきた。今ではランニングシューズのように実体のあるものでさえモノとしての重さが消え、立ち所に体験として消化、回収されていくことを直感してしまう。その軽さと速さに耐えられず我々はレビューせざるを得ない。
私はadizero Japan9というランニングシューズをレビューしたかった。それを通じて自分のランニングの履歴やスペックを明らかにし、そしてライフスタイルを語る。つまりこのランニングシューズをダシにして自分語りがしたかった。それは傾聴に値するものなのか。
否、おそらくそれはない。思わず、よくあるレビューをなぞりそうになっただけ。詰まるところ良いシューズだという”感想”、それ以上でもそれ以下でもない。動画にしたとて、テキストにしたとて、すでにあるテンプレートの焼き回しに過ぎず、そこに新しさはない。レビューは他者の消費を促し、同時にそのレビュー自体が消費される循環構造の中にある。そして誰かに影響を与えることができる快感と自己表現/承認欲求の狭間で漂う。
嘗て消費社会を痛切に批判していた有識者、論客たちにこの豊かな世界は見えていなかった。大量消費社会ではモノの価値が相対的に下がり大量廃棄に繋がって社会倫理的に問題視され、我々はただ消費するだけの存在に成り下がるものとされた。でも個人レベルではモノの価値は変わらない。一つ一つのアイテムに確かな愛着を持つ。だから社会的圧力でそれがまるで実体のないモノとして自分が消費してしまわないように、丁寧にレビューする。そして自分自身の存在も担保する。
現代の大量消費社会と高度情報化社会の相乗効果で生み出されるものを誰が正しく予見できていただろうか。レビューという名のモノを愛しむ行為、個人の豊かなライフスタイル、二次創作的なサブカルチャー。
購買行動は欲望を表す。その欲望が時代と共に変化していく。嘗ては多くのモノや希少なモノを買うことに興奮していた我々。今では濃密な体験に対してしか対価を払わない。そしてそれを体験した自分に二次的な価値を見出す。エビデンスとしてレビューをSNSに熱心に投稿し、それを量産するようなサイクルの中に我々はいる。”体験”の大量生産と大量消費がデジタル空間で構築された。
これは我々の良質な欲望なのか、それとも情報プラットフォームに促された欲望なのか。私にはわからない。