補助金と凡人性までの距離
日経新聞に中国大手企業への補助金や税払い戻しが問題として取り上げられていた。競争環境を歪め、市場全体が不健全になるとの指摘であった。国による保護政策的な支援額は米国も多いが、中国が突出しているデータ。
合理的なルールのもとで健全な競争環境が大前提となっている市場においては確かに問題視すべきだが、この前提はどこまで遵守されているのだろうか。市場は常に変化していて、そこにあるはずの合理性、倫理観、健全性は結局は主観の領域から出ることができない。保護政策に各国で効果があると判断するなら、それはどんな手段でも実行するのではないか。それが表面的であろうが、迂回路使った間接であろうが生き残るために手段は問わない世界。
つまり競争が激化した巨大産業は国の介入から逃れられない(半導体、EV、インフラ、医薬、環境ビジネス、などの国家レベルの基幹産業)。そこで戦うならその覚悟を持って立ち振る舞うしかないだろう。過去からもそうであったし、これからもそれが続くだけ。フェアネスの価値観だけを重視するなら戦う場所を移すしかない。巨大産業は文字通り規模が大きく上手くいったときはその効果が大きいのは事実だが、その競争が激しいだけではない。関与するプレイヤーだけでなく、サプライチェーン、国の介入などで複雑さが増すことを勘定に入れなければならない。その複雑さに耐える戦略と運を持ち合わせているのか。
企業の経営者たちはそれに果敢に立ち向かえば良いが、個人レベルではこのような状況をどのように消化すれば良いのだろうか。
それは競争することを徹底的に避けるという戦略。戦略的逃避で自分の居場所を確保するという手法だ。大きな競争に臨むということは組織にとってはチャンスとリスクの両面あるが、個人ではリスクだけが積み上がることを意味する。成功して得られた対価は組織が掴み、失敗した損失は個人へ均等にロードされる構造。だから個人は競争を巧みに回避することを優先順位の高いオプションにしなければならない。これは別に新しい主張ではなく、そのような動きはすでに始まっている。
【副業】複雑な競争環境ではなく、ローカルの商いやスモールビジネスで個人レベルで完結する場所において共存する戦略。
【投資活動】株式市場での投資活動は難しいのは事実だが、作業としてのPCの前で一人で完結するため、変数は格段に少なくなる。
【転職活動/起業準備】競争から降りる準備、もしくは競争を避ける手立てを考える時間を持つということ。今まで積み上げたスキルが活用でき、中規模ビジネスの持続可能な市場が見込めるような領域を探し続けること。
どれも主体的に向き合えて複雑な競争からは逃れることができそうだ。ただ居心地が良く、ストレスレベルが下がるようなものではない。別種のヒリヒリとした緊張感。どれか一つに絞る必要はなく、複数の選択肢を常に抱えておくことが重要なポイント。不確定要素を少なくして複数シナリオを描くことが骨子となる。
いずれにしても組織の論理と個人のキャリアを架橋するのが難しい時代だ。大きな組織に入れば一生安泰という幻想は消え、独力で生き抜くにはあまりに高次の複雑な社会。
袋小路にいる私たちは自分の制御できる範囲を客観視し、個人の可能性を複数走らせることの意味と効果をイメージし続ける。その習慣化の先に未来を歩く私の背中が僅かに見える。
過剰な自由が加圧されて逃げ場を失った自由が不自由に転じた、自己責任論が跋扈する現代。だから利他性とか、自己犠牲とか、共同体のような思想に惹かれる現代人。
ここで一旦、自己責任とは自らのスペックを生かすスキルや能力、それを発揮するフィールドとしての環境、の組合わせから成るものとする。能力だけにフォーカスすると弱肉強食の世界しか見えないが、我々の今生きている環境を過去現在未来で俯瞰すると別の景色が見えてくる。ここでは純粋な能力が問われているのではなく、環境の大転換で戸惑っている我々の姿が見えてくる。ルールも前提も激変する環境をいなして、自分なりの工夫をする余地がこのように広がっているではないか。先に述べた戦略的逃避や個人の複数可能性の模索に通じる次世代の生き方がそこには含まれる。
繰り返すがここに新しさはない。ホモサピエンスはアフリカ大陸から戦略的逃避で地球全体に広がり、レオナルド・ダ・ビンチの天才性はその可能性を限定しなかった。
私はこれまでずっと日本に留まり、その凡人性も限定せずに生きてきた。
イラスト引用 : https://chojugiga.com/