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社内政治のダンス

 中国の上海赴任して暫く時間が経つが、こんなに近い日本が遠く感じる。時差も僅かで、日系企業で働いている身分として常にそっちを向いて仕事をしているのに。向こうはこっちを見ていない。それは全くネガティブではない。適当にしておけば良いという気楽さもあるし、社内政治から距離をとって自分のやり方で仕事をする裁量権を取り戻した感触もあるし。

 日本ではなく”中国”において、現代ビジネスそのものである”資本主義の基本”に立ち返った手応え。顧客や社会への貢献が自社の利益を生んで、成長に繋がるという常識。

 会社組織というのは利益を上げるためのビジネスが目的でありながら、実態は政治化した組織運営にそのリソース大半を使う奇妙な集団だ。ビジネスするための組織であるはずのものが、社内政治のためにビジネスが方便に使われている。これは倒錯した悲劇/喜劇としてこれまで考えていた。

 文化人類学で交易の歴史や成り立ちを遡ると物々交換はビジネスの手段ではなく、物々交換による関係性構築が目的だったという。つまりビジネスが副次的で関係性構築に該当する政治的繋がりが上位くるものだということ。顧客とニーズに向き合うビジネスと内部的な社内政治とが対立軸という会社組織。社内政治はうんざりで、そこから距離を置くことは個人としては正しいと思う。でも集団である組織形成のメカニズム、現象としての社内政治こそが人間の本質である。だからといってその政治に本気になることはなく、傍観を決め込む私のスタンスは変わらない。でももう少し穏やかな気持ちで社内の”政治家達”と対話できるようにしたい。

 一方でビジネスを駆動するための優れたフォーマットとして資本主義の有効性は否定できない。数多の副作用で地球環境や人間の思想や精神性をすり減らしながらも社会を発展させてきた。資本主義は原理的に成長だけを正義とする宗教でありシステム。旧来の封建的な社会構造や商習慣を解体すると同時に、現代社会の社内政治を抑制する機能もある。社内政治で方向性を見失った経営者、有識者が叫ぶことはいつも同じ。顧客ニーズの原点に戻ること。社内政治は人間集団の本質でありながら、非合理的な営み。だから経済合理性として働く力が反作用として効果的に機能する。

 資本主義システムの合理性と社内政治の非合理性とで絶妙なバランスをとってきた社会。資本主義も社内政治も単独では厄介なものとして扱われる。金融資本主義の暴走、社内政治で没落する日本企業。そして資本主義も社内政治もその双方を巧みに制御しているグローバル巨大企業。これまで我々個人が乗っていたつもりの船は難破してしまった。新たな船に乗り込もうとした際にはすでに定員オーバー。我々は海に放り出されて漂っている。

 一つの区切りとしてまた一年がスタートした。歴史がこれまで繰り返してきたプロセスが2025年も再演される。そのキャストとして今生きている個人は同意無しに無条件に取り込まれる。だからその役割を演じ切らなければならない。意味を求めず踊り続けるだけ。

「ダンス・ダンス・ダンス」(村上春樹)
音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何ともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。そうするとあんたはこっちの世界の中でしか生きていけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。

 何十年前に読んだ小説の一節が脳裏に浮かび上がった。

 ダンスをするにはリズムに乗らなければならない、自分の身体を媒介にして何かを表現しなければならない。意味は留保したまま他者の声に耳を傾けて、自分を駆動させる。これがビジネスの要諦であると同時に、そこに社内政治の原初をみる。他者と自分を結び付けるという意味でビジネスも社内政治も同じである。



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