中国映画「小さき麦の花」を観て
「少し休んだら。」一番近くの人にそのように言われたいから我々は実直に生きることができる。でも誰もそんなことは言ってくれない。
この時代を”高い意識”で生きようとする我々に静かに語り掛ける。競争社会の中で成長だけを絶対視する価値観は幸せですか。生産性を上げるために休むことさえデザインするのですか。
「少し休んだら。」
中国農村に生きる一人の貧しい男を通じてリー・ルイジュン監督は我々に投げかける。売れ残った厄介者の中年男女が夫婦に仕立てあげられた。二人は農作業をしている。少しでも作業を早く進めるべく男は没頭する。女が男に呟く。それは最も深い承認で、男を癒して勇気付けるフレーズ。
この映像作品の解釈には幅と多様性があり、その読み取り方は開かれていながらも深く鋭い主張が隠されている。中国当局は検閲タイミングではそれに気付かなかった。貧しい農村で繰り広げられる美しい叙事詩。朴訥な男とそれを取り巻くありきたりの風景と人間模様。23年中国国内で大ヒットしたために当局は慌てて打ち切りにしたという。その経緯と事実がこの映画の本質と影響力を表している。
映像とそのプロットは一つの良質な物語に過ぎないのだが、鑑賞者内部で反芻/熟成する過程で隠されたメッセージが浮かび上がるような構造となっている。
私は日本人であるため少し客観視できて、この映画が内部で熟成される時間差は多少あると思う。一方で中国人にとってはもっとダイレクトに生々しい物語として脳内にインストールされるはず。世の中や自分が盲信している価値観に今は合理性を見出せるが、それは本質的なのかというラジカルな問い。
「結婚とは幸せになるためではなく、不幸にならないためのシステムである」とある思想家が主張していた。言葉の意味は漠然と理解していたが釈然としないところがあった。それをリアリティー伴った映像としたのがこの作品のサイドストーリー。婚姻率や出生率の低下が問題視されるが、不幸になりにくい現代社会が構築されたことは言祝ぐべきこと。マクロ経済としてはネガティブな現象であるが、個人の単純な感情だけを取り上げればポジティブなこと。我々は幸せになったという証左。
この映画作品にはこのような含意や解釈の多様性がここかしこに散りばめられている。映像はゆったりとした静かな時間が流れているが、そのメッセージはとても刺激的だ。
夫婦の関係性を象徴するロバ、創造と破壊と再生を表すブルトーザー、家畜、農地。輸血と搾取。見栄と清貧。土と風。愚直と誠実。労働と貨幣。政治システムと不条理。贈与と給付。種まきと収穫。貧困と義理。子供と大人と老人、男と女。暴言と優しさ。言葉と身体性。家族と個人。都市と地方。反復と輪廻。幾何学と円弧。光と影。赤と青。不動産と居場所。生と死、備蓄と蕩尽。ギリシャ神話、古代ローマなどの古典で描かれる物語の要素がほぼ全てリストアップされている。
それでいて、否それが故に、中国の現代性を射抜く優れた作品。
ある書籍で引用されていたことをきっかけにして、すぐに配信サービス(Amazonプライム)で鑑賞したが、そのステップに驚いている。興味を持った映画作品は瞬時にアクセスできるというあまりに利便性の高い時代。更には自分が一生で味わい尽くせないコンテンツがすでに準備されていることにも気付く。そしてそのような良質なコンテンツが現在進行形で蓄積され続けているという事実。
映画は約2時間の映像作品というプラットフォーム。人が一生に持つ可処分時間はあまりに少ない。私が鑑賞できる映画は残り何本だろうか。この映画を観たことは全く後悔していない、寧ろ収穫。こんなに優れた中国の映画作品があるならまだまだ発掘したい気持ちを持つことになった。でも失敗して貴重な2時間を消費できないという感情も同時に湧き上がってきた。
このあまりに現代的な貪欲さや損得感情がこの映画の持つ芳醇な物語性から最も遠い。その対極にある価値観を同時に内包している世界。過去現在未来とその構造は変わらない。100年後も同様の物語が語られるだろう。