Mのレッグプレス
ひょっとしたら、私はとんでもないドMなのかもしれない。
それを感じたのは、仕事の合間を縫って行ったジムで、リニアレッグプレスをしていたときだった。
確か、450キロだっただろうか。
1レップ、2レップ、3レップとやって、4か5レップ目で「ダメだ、そろそろやめよう」と思った。
だが、どうしてもプレートを元の位置に戻せない。
身をよじり、膝を手で支えながらせいいっぱいに足を伸ばし、腰が攣るほど必死にプレートを押し上げようとした。
だが、上がらない。どんなにもがいてもプレートを元の位置に戻せない。
圧倒的な質量を受けて膝が軋む。背中が悲鳴を上げる。アドレナリンがキマった心臓の鼓動を感じる。嫌な予感に由来する痺れが全身に走る。頭や首さえ攣りそうだ。
そのとき私の脳裏によぎったのは「死」だった。
いや、潰れたからといって別に死ぬわけじゃない。分かっている。重りが途中で止まるようにストッパーだってついている。
だが、この重量が私の身体の上に落ちてきたら、私はほぼ確実に圧死するだろう。
しかも、450キロ分の重りはすぐにどかせないだろうから、周りの人に見られながら、なすすべもなく圧死するのだろう。
想像する。重力にしたがって落ちてきた重りの衝撃を。あばら骨が小枝のようにたやすく折れて、内臓に突き刺さることを。そして血を吐いて、吐いた血で窒息することを。
多分、たいへんに苦しい。
しかもこの重量を選んだのは私なのだから、完全に自業自得である。
昔ベンチプレスの最中に、90キロのバーベルで胸を強打したときのことを思い出す。あれですらしばらく痛かった。
だというのに、今回はそれの更に5倍の重量だ!
死ぬ? 死ぬ! ダメだこれ上がらない、死んじゃう!
助けて! 声が出ない! いやそもそもこの重量は簡単にはどかせない!
ってかこの重量でやることを選んだのは自分なんだから、その帰結を潔く受け入れろよ。
こんな風に言語化する余裕はなかったにせよ、私には潰れる直前、確かに予感があったのだ。
「自分にも他人にもどうにもできないほどの質量」として目の前にある、450キロ分のプレートが確かに私の「死」だった。
そして、圧倒的な質量で容赦なく押しつぶしてくる死の予感に、私は震え慄いたのである。それはもう、蛇に睨まれた蛙のように。
もちろん、死にはしなかったよ。
言うまでもなく、死んでいたらこんな駄文書けていないからね。
けれど、自分の根源的な恐怖を刺激された興味深い体験だった。
ストッパーのおかげで重りが止まり、「死」の予感が徐々に過ぎ去ったとき、私は自分がかつてないほど昂っていることに気づいた。
いや、正確にいえば、私は「自分が死の危険を感じて昂奮した」ということを後づけで解釈したのであろう。そこはまあ、どうでもいい。
とにかく昂奮があまりに鮮烈だったものだから、帰りの車の中でも一人で大騒ぎしてしまった。とんだご機嫌マゾ野郎である。
そしてまた、自分が数年間筋トレを続けられている理由の一端が分かった気がする。私は筋トレというプロセスそのものを、結構楽しんでいるのだ。
一般に筋トレが「苦痛に耐えて結果を出す」ような類のものと考えられているのとは対照的に。
「苦痛に耐える」のではなく「苦痛を楽しむ」。そうなると続けられる。
だからきっと、マゾは筋トレに向いているのだろう。しらんけど。