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小説書くの楽しい!臆病者なので!!
「小説である」ということは、現代における最強の免罪符の一つだ。
言うまでもなく、小説は基本フィクションである。頭の中で練られた虚構である。
そして「それは現実に起こった出来事じゃない」という建前は、私に妄言を吐き散らすことを許してくれる……気がする。
とはいえ、この風潮は昔からずっとあったものではないらしい。
例えば、昔のヨーロッパの上流階級では不倫も自殺もありふれたものだったとのことだが、それを描いた小説『ボヴァリー夫人』は裁判沙汰にまでなったのである。
逆に現在では、実際に行ったら裁判沙汰になるようなことでも、小説の中ではありふれたものとして受け入れられている。
先の「不倫」や「自殺」といったテーマがまさにそうだろう。
そしてこの逆転は、文学が資本主義社会によってその内部へと組み込まれ、禁忌を侵犯する力を失ってしまったことに起因するのだという。なんかフーコーがそんなこと言ってた。
まあとにかくだ、こうした状況は私のような臆病者にはありがたい。
侵犯がどうとか、社会への問題提起がどうとかいってもね、やっぱり炎上や訴訟沙汰なんか勘弁ですよあたしゃ。たとえそれが、乗り越えるべき当の社会に取り込まれてしまうことを意味するんだとしてもね。へへっ、知的賎民上等でさぁ。すべての人間に平等に認められた「言論の自由」ってヤツを謳歌しなきゃね。
そうはいっても、最近は「たとえフィクションであったとしても、一定の規制を!」みたいな考えが出始めているような気もする。ポリコレとか典型的だよね。
って考えると、「フィクションである」という免罪符も、もうプロテスタントによって批判されつつあるのかもしれないなぁ。
ということは、文学の侵犯力が復活してきているのだろうか?
個人的に、近年は相対的に文学の侵犯力が強まってきている時代なのだと思う。
ざっくり図にするとこんな感じ(色々適当!)↓
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要するに「文学そのものの侵犯力が強まった」のではなく「社会の側が、公的な意味で昔よりもデリケートになった」結果として、文学が再び侵犯力を持つようになったということである。まあ、あくまで推測だけどね。
(もちろん、社会全体のモラルのレベルが現代の価値観からすれば低かった時代にも、いわゆる先進的な個人はいたと思うけど……)
この変化が良いものなのか、悪いものなのか、一概には言えない。
「社会全体のモラルのレベルが上がった」「それまで拾われてこなかった声が拾われるようになった」という意味では良いことなのだろう。
しかし、それと同時に「社会全体の暴力への免疫力が低下している」ようにも感じてしまうのだ。
何だろうね、「臭い物に蓋をしている」というか「全体的に無菌室育ちになっている」というか。言いがかりみたいなものかもしれないけどさ。
何にせよ、こうしたデリケートな社会的風潮はもうしばらく続きそうだ。
そう思うと「侵犯めいたことはしたいがモラルや法律にまでは反したくない、概ね善良でちょい悪で臆病な人間」には、若干厳しい時代になるのかもしれない。小説=フィクションの世界までもが、再びタブーの領域になっていくのだから。
まあ、私はこれからも小説を書くんだろう。
ここまで述べてきた自分の考えが間違っていることを──つまり、小説がこれからも、何ものにも縛られずに語れることを願いながら。