
芸術とは何か(西洋)
芸術とはすなわち作為である。東洋の芸術には明るくないので断言できないが、西洋の芸術に関してはおそらくそうだと思う。
かつての作為とは、権威の高揚などの特定の目的に奉仕するものであった。
例えば絵画は、教会や君主の依頼を受けて、神の聖性や権力者の威光を表現するために描かれていたわけだ。
建築もまたそうである。ゴシックは人工物の極彩色で、ルネサンスは自然光で……という様式の違いはあれど、いずれも至高天の意識を喚起しようとした。
(音楽はかじったこともないからわかんない。詳しい人がいたら教えて)
時代が下り、神が死んでも、公的な目的は変わらなかった。神や領主が理性や国家に変わっただけで、相変わらず芸術は「権威に奉仕する作為」という形で練り上げられた。
無宗教を謳ったソ連のプロパガンダ映画にさえ「殉教者」というモチーフがたびたび登場するのは有名な話である。
もちろん、こうした主流派から分離していく動きは常にある。未来派やロシア・アヴァンギャルドなど、程度の差こそあれ、当初は公的に排斥・弾圧されがちだった芸術たちだ。
とはいえ今日真の芸術──そんなものがあるとすればだが──の源流とみなされているのはこちらの方であろう。
さて、こうした芸術は、ざっくりとした括りにはなるが「他の目的に奉仕しない芸術」といえる。要は「芸術それ自体に奉仕する芸術」だったり「芸術とは何かを問う芸術」だったりするわけだ。
わかりやすい権威への奉仕をやめ、芸術と芸術でないものの境界線──自己と他者とを画する地平に至ろうとする試み。その果てなき旅路の足跡。この作品は完成しないと、無意味であると、宣言することで逆説的に「完成」するような作品。
今日ハイカルチャーの文脈に属しているのは、その種の芸術なのだ。
つまるところ、奉仕すべき外部の目的は消えうせたわけである。そして、奉仕する先がなくなって、宙ぶらりんになった作為だけが残っている。
絵の具やらキャンバスやらの媒体を使って、作為を他の人にも見聞きできる形に解釈し翻訳すると、それは作品となる。が、元の作為が宙ぶらりんなのだから、作品も多かれ少なかれ宙ぶらりんである。
言うまでもなく、その手の作品を鑑賞するのは難しい。何が表現されているのかを、見て認識して、わかりやすいメッセージを受け取ることができないから。
目的を、言葉を、意味するところを失わんとする作為は、語られえない。言語化はこの種の作為を型に押し込めて、陳腐にしてしまう。安易に「この作品には、こんな意味があるのだ」とか言って、浅薄にしてしまうのだ。
「考えるな、感じろ」──これは別に投げやりになっているわけではない。
人は言葉なくして思考することができない。それでもなお現代アートが命じたいのは、思考ではなく肉体的で官能的な反応なのだろう。つまり思考が発生する前にあるはずの脳内の電気信号や、網膜を焦がす鮮烈な色彩、圧倒されて呆然と立ち尽くす身体である。
意味不明な作品は、意味不明ながらに身体的な反応を命ずる。意味がわからないままに従うことを求めるそれは、さながら啓示だ。
だが、素直にこの命令を受け入れる肉体は現存しない。神は死に、複製技術の登場によってイメージは氾濫し、アウラは霧散し、たった一枚の絵に圧倒されて立ち尽くすような身体性は消滅した。啓示を受けるには、現代人はあまりに理性的かつ鈍感になりすぎた。
そしてまた、作品の側も。
本源的に作品は意味を持つ。持ってしまう。真に無意味な作品など、現実には存在しない。「意味のない作品を作りたい」というのは「意味のある作品を作りたい」より遥かに途方もない作為だ。
形而下の作品は必然的に意味=言葉=思考の重みを担ってしまっていて、優美で軽やかな無意味さは残り香としてしか嗅ぎ取れない。
だからこそ現代アートは、意味をなくそうと躍起になって、そこに意志と技術のリソースをありったけ注ぎ込んだのではないか? そしてリソースを注ぐほど、作品は先鋭化し、息苦しく、とっつきにくく、重くなっていく。まるで蛸壺化した学者の論文のように。
消すことのできない作為をいかに消すか、「作為でない」すなわち「芸術でない」芸術へいかに接近するか。そういう、不可能で矛盾した試みのために足掻くほど、作品は軽やかさを失ってつまらないものに見えてくる。
現代人の大半が「現代アート」を解しないのはそのためだと思われる。
現代アートを「下手くそ」とか「くだらない」といって笑う人間は、一体何を嗅ぎ分けているのだろうか?
きっと、意味から逃れようと蛸壺にこもる愚かさを、不可能なことのためにもがく滑稽さを、自由になろうとして退屈に陥る鈍重さを、曲がりなりにも芸術のくせに漂う金の臭いを嗅ぎ分けているのだ。
本当は大いなる目的がほしいのである。明るく開けていて、可能で、陽気で、軽やかな意味がほしい。無償の真善美であってほしい。それを喚起する、古代やルネサンスのように均整のとれた形式が恋しい。
それに引き換え「作為を消したいという作為」だなんていかにもインテリぶっていて、高踏的だ。意味不明だ。それじゃダメだ。面白くない。自分にとってわかりやすくあってほしい。
大抵の場合、人は苦悩するための苦悩に優しくない。「理解」されないことを欲する作為=作品の試行錯誤に寄り添おうとは思わない。
だが、わかりやすさが奉仕してきた大いなる目的は死んだ。
そして我々は、その復活をどこかで望みながらも、望むべくもないと知っている我をこそ聡明なものとして愛する。
聡明さはレヴィナスが批判したように、争いの可能性を見て取ることなのだろうか?
つまり、復活するとも思えない大いなる目的をなお探し求める情熱的な精神より、人々は孤独で徹頭徹尾わかり合えないというにがーい真理を見通すシニカルな精神こそが、聡明なのだろうか?
決して少なくない現代人がそう考えていると見える。大きな矛盾である。
聡明さをコミュニケーションの不可能性を見通すことと捉えておきながら、その実、わかりやすい作品による理解を求めているのだから。
ならば人は、いかにして救われるだろうか。
神だの国家だの家族だの自由だのに今更価値を見出すこともできず、さりとて何物にも関心を持たず、独りで閉じこもって生きるのは虚しい。
インターネット上に散見される不毛なレスバは、何も信じられないと他者を否定しながら、どこかで同調してくれる者を求めてしまう人の叫び声だろうか?
傷をなめ合うのに相手を信じきれないのは、人が聡明だからだろうか?
わからない。半透明の分厚く重い膜に包まれている現代人は、孤独で、鈍感だ。
形而下の試みすべてを薄ら笑いで遠くから見つめながら、形而上の世界ももはや信じられない。唯物論者だが、生成消滅するものの世界を愛し抜く覚悟もない。
矢のように鋭く軽く、被膜をぶち抜いてくれる作品がほしいのだ。
ディスコミュニケーションも滅びゆく定めも悪くはないと、斜に構えた気持ちのままで、しかし信じて死ねたら幸福だろうさ。