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エモさとはなにか
前にもこんなこと書いたけど、また書いた。
今のほうが文章うまい気がする。
エモさとはきっと、少しだけにおいのする唯物論である。
魅惑的な香水には、ごくわずかに糞尿のにおいが混じっているという。
いうまでもなく、快楽とは水で薄めた苦痛である。
エモーショナルな世界に神様はいない。そこにはただ、ものだけがある。
ものは赤裸々だ。そして生々しい。それは少しにおう、脱ぎ捨てられた下着のように。
神様は高いところにいるからだめなのだ。手が届かないからつくりものみたいだ。嘘っぱちだ。ぺらぺらだ。こんなものに救われたいと思うだろうか?
偽物に救われたくない。いい子ちゃんぶって心の底から安堵したくない。そんな目にあうくらいなら、地獄におちたほうがまだましだ。
けれど、エモーショナルな世界には文字どおりの地獄もない。ものしかないからだ。
こわーい悪魔も鬼もいない。ただ、灰色で重力のある世界だけがずっと横たわっている。
エモさの中にある諦めや自棄は、今この瞬間がいつかは終わるという予感に由来する。
どんな友情も不滅ではないし、どんな恋慕も色あせる。モラトリアムはいつか死ぬからモラトリアムなのだ。地雷と病みでできたうろんな輝きにも、そのうち曇ってしまう日が来る。
唯物論だからね。この世界には神様なんていなくて、ただのものしかない。
そしてすべてのものは時間という制約を受ける。人はいつか死ぬし、どんな道徳も最後は塵になるし、宇宙だって熱的死を迎えるだろう。
でもむしろ、そういうところに救われるのだ。私はなにも遺さないで死ねる。自分のつまらなさとか、どうしようもない痛みごと、完全に消えることができる。
だからこそ、恥じらいのない今を生きられる。エモさのにおいはここから生じる。救いのない浮世に救いを感じたとき、謳歌に値するのはただの命だからだ。
命にはにおいがある。よだれも、汗も、糞尿も、精液や愛液も、においをもつ。それはいいにおいではないだろう。だが、ラフレシアのように生きている証なのだ。
それに、ものしかない世界では心もにおいをもつ。真善美はえてして熱くて軽くて無味無臭である。他方ただの感情は、重くて湿っていて、かすかに下心のにおいがする。
けれど、その悪臭をひそかに愛している。ものがそこにあるからだ。
そしてエモさとは、においと手触りのする現実への、都会的な愛着なのである。