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一線を越えるか?越えないか?

例えば仕事とか勉強とか、何かの作業をしていると一線を越える感覚を得る時がある。それは、良い意味で。

成果が自分の分身に思えるとか、これなら誰に何を言われても自信を持って説明できるというものを生み出す時がある。

前職でいえば、組織内で各出先事務所への通知文を作成した時。
通知文は、その書面だけで組織内の方針などを伝える重要な書類であり、曖昧さや安易な質問を受けるようでは余計なやり取りを生んでしまう。そのため、通知したい内容を読む人が誰でもわかるように簡潔に整理して文書を作成する。

最初はゼロから作るので、伝えたい内容のキーワードを何個か並べて大枠を整える。そこに、文章を書き足していく。内容はぐちゃぐちゃだけど、伝えたいものをとにかく入れ込む。
内容を出し切ったら、要点をとらえて形を整えていく。まるで粘土細工のような手順で、ゼロから形を作って成形していく。そんな角度から見れば、文書作成を芸術と言っても過言ではない。

文書作成をする部署に異動した当時、とにかく文書を作ればいいと思っていた。しかし、当時の上司はそれに意味を持たせてくれた。

  • 誰にでも伝わる文書(目的を明確にする)

  • どの角度から見ても伝わる文書(俯瞰したり、間近で見る)

  • 言葉を選ぶ(工夫する)

「てにをは」を直されるのは当たり前で、文書の余白のサイズや空白は何文字とるなど、基本の「き」をとことん教えてもらった。内容が伝わらない、読む人に誤解を与える、追加資料が無いと伝わらない、図解も入れないとわからない。相手目線も教えてもらった。
「技術屋なんだから文書作成なんて書いてあれば何でもいい」という人もいたが、公務員(行政職)である以上、ルールに基づいて文書が書けないなら技術屋にすらなれないと自分は今でも思う。

どのくらい文書を作成したかは数えていないが、とにかくたくさんの文書を作成した。数を重ねると、自分に型ができてくる。それは感覚のようなもの。ゼロから文書を作るにも、目的や内容によって全体のレイアウトがわかるようになった。文章構成や、使う言葉、図解を添付するか否かなど、いつしか自分の分身を作るような感覚で作成するようになった。

その成果は、誰に何を言われても説明できる。なぜなら自分が作ったから。「とにかく作ればいい」ではなく、魂を込めて作ったから。もちろん、第三者からみたら間違いもある。でもそれは、素直に間違いを受け入れて次に活かせばいい。次の文書はこれまでよりもさらに良くなる。常に次の作品が自分の最高傑作。はたから見たら、A4サイズの1枚の文書かもしれないが、自分には芸術作品として出品したいくらい、魂を込めた文書である。

一線を越えるか?越えないか?
言い換えれば自分の型を作れるか否か?それは、魂を込めて数を重ねられるかどうかなのかもしれない。感覚でしかこの状況を伝えられないが、自分がやってきたことはとにかく文書という作品を作りまくったこと。
量は質を凌駕する。

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