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家族のかたち

「家族とは何か?」
私の最近のテーマのひとつです。

血が繋がっていれば家族?ならば、配偶者は家族じゃない?
戸籍で繋がっていれば家族?ならば、血の繋がりがなく戸籍でも繋がっていない同居人は家族じゃない?

血の繋がりや戸籍の繋がりがなくても、家族以上に強い絆で繋がっている人達はいます。未だに私の中で家族の定義が見えていないですが、いろいろ考えさせられる日々です。


ラーメン店での誕生日

先日、知り合いの家(ラーメン店)に泊まる機会がありました。その日は娘さんの誕生日。20時でお店を閉めて、みんなで誕生会を開催しました。

本来なら、家族でお祝いするのかもしれませんが、その日はアルバイトの子やお客さん、お客さんを迎えに来た娘さんなど、時間差で出入りする人みんなが、知り合いの娘さんの誕生日を祝ってご飯を食べました。

お祝いをしたメンバーには、血縁や戸籍での繋がりが無い人の方が多かったです。でも、「ご飯食べたの?」「食べて行きな〜」「もう10歳になったのか〜」「誕生日プレゼントに帽子を編んできたよ〜」「みんなで写真撮ろ〜」

そんな会話が飛び交い、みんな家族なのか?と思わせるほどの親近感で、見ていてなんだか温かい気持ちで過ごせた時間でした。ただ単に「誕生日だからお祝いしたい」、そういう素直な想いの人達が集まり、ただ単にお祝いしてワイワイしている。

当たり前のようですが、このような光景って、最近見ていないなと思いました。

拡大家族から核家族へ

最近は親子三世代で暮らすような拡大家族は少なくなりました。その分、核家族が増え、一家4〜5人くらいで暮らす世帯が増えています。スーパーに並ぶお惣菜などは核家族向けの量が並んでいるのを見て、改めて実感します。

拡大家族と比べて、核家族では閉鎖されたコミュニティが形成されます。

  • 少人数での生活によるストレスの減少

  • 自由度が高くいられる

  • 望んで1人になりやすい

そんなメリットがある一方

  • 価値観が狭まる

  • 家族以外の世代に触れる機会が減る

  • 我慢や譲り合いの気持ちが減る

などのデメリットがあると考えます。(個人的見解)
核家族による自由度の獲得の裏に、家族以外の人との繋がりの深さが希薄になってきているように感じます。

同じ釜の飯を食べる

ラーメン店で、みんなが同じ釜の飯を食べる。
そこには血縁とか戸籍とかは関係なく、想いが同じ、もしくは違っていても「一緒にいたい」と思える仲間。「しょうがないやつだな〜」と言って面倒を見たり、4月から社会人になるアルバイトの子に「どんな会社に就職するの?」か、なんて掘り下げて聞いてみたり。

とにかく、血縁も戸籍も繋がっていないのに、人のプライバシーに踏み込んで仲間の性格や人生に寄り添った付き合いをする。それは、時にはわずらわしいかもしれません。面倒くさいかもしれません。「ほっといて」と思うかもしれません。

でも、みんなほっとけない。今、仲間がどんな想いなのか?何かつらい想いをしていないか?どんな想いで生きているのか。お節介かもしれないけれど、仲間だから知りたい。

お互い、その時々でいろんな感情を抱きながら仲間とぶつかったり、感謝したり、尊敬したり、反面教師にしたり、いろんなことをリアルに学ぶことが出来る。

そんなプラスもマイナスもひっくるめて、一緒にいたいから繋がっていて、同じ釜の飯を食べるようになる。
これって、家族なんじゃないのかな?

お節介

今の時代、なかなか他所の家族の出来事に口を挟めないです。「他所は他所」、「うちはうち」と線を引いて生きるのが多数派な感じがします。

いつの間にか、他所とうちを比べたり、嫉妬して敵視したり、見えない線に惑わされている気にもなります。でも、同じ地域で生きる仲間とすれば、その線は本当に必要なのでしょうか?完全に不当とは思いませんが、昔みたいにもっとお節介な関係でもいいのではないのかな?と思います。

お節介は確かに面倒くさいかもしれません。でも、そこにある人間らしさとか、「あの人だからしょうがないわ」とか、そういう温かみがある繋がりも、家族として位置づけてもいいんじゃないかなと思います。

ラーメン店での誕生日で、私が思う家族のかたちが見えた気がして、これからも「家族とは何か?」を考えて行こうと思います。

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