『グランメゾン東京』に学ぶ②
『グランメゾン東京』というドラマがある。
この物語は、大切なことを教えてくれる。自分ひとりには限界があること、尊敬すること、相手を補うこと、信頼すること、仲間を想うこと、本物の思考は深いということ、その他いろいろなことを教わったので、整理しておきたい。
信頼や尊敬は、パワハラをも凌駕する。
チーム運営や人材育成において、人とのコミュニケーションはとても重要である。相手を人として見ているか?相手目線で物事を捉えているのか?など、人それぞれコミュニケーションのとり方があり、それによってお互いの距離感も変わってくる。相手をコマとして扱ったり、自分の機嫌だけで相手への対応が変わったり、受け手の捉え方によってパワハラと認識されることもある。些細なことでも、積み重なればどこかで歪みが生じ、やがて関係を壊すことにもなる。
一方、どんなに不器用で伝え方が下手でも、相手からの信頼や尊敬を得ていれば、受け手にパワハラの概念はない。
言葉遣いが乱暴でも、相手に失礼なことを言ってしまっても、それが相手を想った行動だったり、相手を信頼した発言だったり、信頼や尊敬の先にそんな背景が垣間見えれば、「あの人らしい」といったキャラで認識される。どんな行動も発言も、受け手にはパワハラではなく愛情や助言として受け入れられる。
これは、万人には通用せず、一見したらパワハラにしか見えないかもしれない。でも、当事者同士にしかわからない共通言語で関係性が築かれる。それは時に相手を奮い立たせ、時に相手を勇気づける。信頼と尊敬があり、強い関係性を築いてこそ、それがパワハラをも凌駕する。
「うち、厳しいよ」という採用基準
厳しく言うと人が辞めてしまうこともある現状、言葉遣いがちょっと強だけで人が辞めてしまうこともある現状。それらはパワハラとされてしまう。
やがて上司は部下への対応に気を遣うようになる。部下が辞めないように、優しく、気持ちよく、部下をエスコートする。どちらかというと、守りの姿勢で作る関係性が確立しつつある。もちろんそれが悪いとは言わない。
ただ、「本物」を求める志や理念がある組織だとして、同じ志を持つ仲間と前を向いて走りたいとして、部下への気遣いはどこまで必要か?何をもってパワハラか?その基準は相手しかわからない。でも、本物を求めるうえで、相手の基準に左右され過ぎてしまうのはどうか?相手の基準に気を遣うほどの余裕はない。ただ、同じ志を持つ者への信頼がないわけではない。ただ、それは万人には伝わらない。
信頼や尊敬など、人の感情を動かすものが起こす行動にはエネルギーがある。ならば、相手の志を確認する術として、自分たち組織から相手への信頼を示す指標として、「うち、厳しいよ」という前提条件を採用時にあえて志望者へ伝えることて、相手に本物を目指すか否か?を選択してもらうことも有りではないか?
「辞めてしまわないように優しくする」ではなく、本物を目指すからこそ「うち、厳しいよ」と、あえて宣言する。それでも「一緒に、働きたい」という人材と出会えてこそ、お互いが深く関係性を築けると考える。
自分たちの志、思想、目指すもの。全てにおいて素直にさらけ出し、それを本気で受け止める人材こそ、本物の仲間に成りうると考える。