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【小説】「私たちの言葉」
危うく飲み込みかけたほっけの骨を、指でつまむ。
「喉に骨が刺さったら、ご飯を飲み込むんだよ」
お母さんがそんなこと言ってたなと、魚の器に骨を置く。
味噌汁に口をつける。湯気も一緒に吸い込むと、いつもの一人暮らしのインスタントでは感じようのない出汁の香りが鼻に抜けた。
「銀座 ランチ 定食 おすすめ」で上位に出てきた星4.4のここの魚は、ふわふわして炭の味がする。
「伝票置いておきますね」
店員さんのタイミングも素晴らしい。こちらから一度も声を掛けることなく、目線と気配を察してお水、注文、伝票まで終えてくれた。必要以上には話しかけてこないが、目が合うとマスク越しに見える笑い皺にホッとする。ランチタイムのピークに備えてなのか、今度は大きめの耐熱ポットにほうじ茶を注ぎ始めた。
普段なら1食に1800円は出さないが、テレビで一度特集が組まれていたのを見たことがあるのと、誤って開けてしまった自動ドアの向こうから、帰省して玄関を開けた時のような温かさで「いらっしゃいませ」と迎え入れてくれたことが決め手となった。
前の四人席に座って、運ばれてきた料理を見ている老夫婦は、ここが話題の人気店だと知って来たのだろうか。
奥さんは私と同じほっけだった。嬉しそうにその身を口に運ぶ様子を眺めていると、右の席から、くちゃくちゃと食べ物を咀嚼しているような、音が聞こえた。
少し前から、そんな音がするようなしていたけど、気にしたくなかった。不快なものを見て、今のこの満足感を台無しにしたくない。他人が舌を出して食べ物を受け入れようとしている瞬間は、欲望が丸出しになっている感じがして受け付けない。
口を閉じればいいだけなのに、なんでそんなこともできないんだろうと、マスク越しに見やる。
「お茶のおかわりはいかがでしょうか」
先ほどの大きなポットを見せて、店員が訊ねる。
母娘だろうか。娘はサッと下を向き、手持ち無沙汰からかテーブルの端にある爪楊枝の頭を撫でる。
母親が娘に、小さく2度人差し指を振る。
「どうする?」と、声とは言えない音で聞いた。先ほど咀嚼音に感じたこの音は、声のない発音で生まれる音だった。
私と同じくハッとした店員は、娘の方に少し腰をかがめて、
「お茶、おかわりしますか」
と、湯呑みを指す。失礼のないように、傷つけないように、という心配りが笑い皺に見えた。
娘は、店員とは合わせない視線を母親に向ける。
「お願いします」という母親の言葉を受け、ゆっくりしてってくださいね、とややゆっくり気味に口の動きを見せ、調理場へと戻った。
彼女の意識が調理場へ向いたことを確認した途端、手話を始めた。
細くて長い、しなやかな指が楽しそうに話し出す。
母親も、時折笑い声を上げながら、肉付きのいい手で応える。
手話など珍しくもない社会になってきているはずなのに、ドラマで見る簡単な手話しか分からなかった。
「ここ、本当に美味しいね」
「さっき行ったお店のあれ可愛かったよね」
「最近の推しがさ、韓流のあの人なんだけどね」
「ねえねえお母さん」
「お母さん」
こんな感じかな、と想像して湯呑みを持った。湯呑みはもう持てるくらいの熱さになっていた。
2人だけの秘密の話。音のない世界で、母と娘が囁き合っている。誰にも話を聞かれることもなければ、内容も知られない。
母親を独り占めできる彼女は、キューティクルの整った髪を揺らして笑っている。
誰にも邪魔されずに、誰の邪魔もせずに2人だけで話ができたら楽しいだろうな。
定期的にかかってくる母からの電話に、「別に、いつも通り」と答えてしまう。
話し始めたら涙が溢れて、普段の強気な自分ではいられなくなってしまうから手放しでは話せないことを、手話なら話せるのだろうか。口にした言葉を耳で聞くと、現実のことになってしまうから話せない。
湯呑みにはまだ半分お茶が残っていた。表面に映る自分と一緒に、飲み干す。
店員に向かって、合図する。さっきの笑い皺で駆け寄ってきた。
「お茶のおかわりお願いします。」
注ぎたては熱くて持てないけど、でも冷めてるよりも熱を感じて安心できる気がした。