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【小説】「這う」

「あなたには足、あるんだもんね」
と、彼女は今日も息をするように失ったものを見つけていく。
 

 今朝の秋晴れは、今の幸子にとって眩しすぎる青さだろう。 


「何言ってんだ。目線が高けりゃ、見たくないものも見えちまうんだぞ」
 

言い終わらないうちに目をそらした。慰めようとしても、うまくいかない。
 

 幸子の反応を伺う。売店で急遽買い足した入院着の袖から、色のない幸子の腕が伸びている。地割れのような手術痕が這い、動かない。
 


「だって、あなたはこれからどこにでも行けるじゃない」
 包帯とガーゼで覆われた顔から、声が絞り出ていた。幸子の力ない声は、ドアの外で慌ただしい看護師たちの足音でかき消される。
 


 暫くは普通の生活は送れないであろう幸子の横顔を見ながら、会社から帰ってきたソファに倒れ込んでいた頃の彼女を思い出す。
 この為に平日頑張ってるのよ、と勇んでソファで横になるための準備をするのが、土曜の朝のルーティーンだった。
 子育てが終わってからの社会復帰は、想像以上に彼女の肉体と精神に負荷をかけた。
 

 「外で代わりに戦ってるんだから、家では休ませてよね」がここ数年の彼女の口癖だった。
 

 ソファから立ち上がらなくてすむよう冷蔵庫から持ち出していた2ℓのペットボトルは、もう二度と持てそうにない。
 少しだけ空いた窓から吹く風は、冬がもう近くまで来ていることを知らせている。
 


「休むの好きだったろ?良かったじゃないか、しばらくゆっくりできて」 


「ねぇ、あなたそれ本気で言ってるの?」

 

 蛇に睨まれる。不用意な言葉たちが彼女の神経をまた逆なでしてしまう。フォローのつもりが、幸子の顔をさらに曇らせた。
 


「…あなたが、言い出さなきゃ、今頃」
 

それ以上は言わなかった。言ったら自分の方が悪者になってしまう。そういう唇の形をしていた。 

  

 自分が一番よく分かっている。気晴らしに、なんてめったにしたことない登山なんかに連れ出していなれば、幸子の足はこれからもこれまで通りだったはずだ。

 

 下腹部から下にかけて、あるはずの布団のふくらみがない。
 

 ふかふかした布団を好む幸子の為に、晴れた日は必ず布団を干した。
 私が定年を迎えるまでの間、幸子へ感謝を伝えたこともなかった。というか、自分が幸子のしてきたことをする立場になるまで気付きもしなかった。だから、幸子も自分の立場になって分かったのだ。働いている方が偉いと思い込んでしまうことに。
 


「そういう無神経なところが、本当に嫌」 


「すまん」

 

 そうだ。私が悪い。疲れて帰ってきていたのに、自分がやったことに感謝して欲しいとか、働いてみて、俺のこれまでの苦労がわかってほしいとか、求めすぎてしまった俺が悪いんだ。 


 「これから地を這って生きる私の気持ちなんてわからないのよ」 


「車いすだろう?別に這うわけじゃないじゃないか」 


「車いすなんて、生きる世界が限られていくのよ」 

 

 

 目が覚めますようにと、幸子の同僚が持ってきたガーベラが窓の外を眺めている。
 

 そうだよ。限られればいい。俺の介護なしでは生きられず、いつもごめんね、ありがとう、と生きればいいんだよ。



 


 目を閉じて、あの時のことを思い出す。
 舗装された山道ではあるものの、かろうじて踏ん張れる土の柔らかさだった。気を付けろよというつもりが、自分が滑り落ちてしまいそうだと自虐的に笑って話した。


 「普段家にいるだけだから足腰がなまってるのよ」

 幸子がこちらを振り向かずにそう言った。
 乾いた草木を踏む音が、私の耳奥に響いた。 
 幸子の足がぬかるんだ土に取られる瞬間を、待った。 


 彼女のバランスが崩れたタイミングに合わせて、彼女が倒れていく方向にそって、ハイキングリュックを押していた。
 人は考えずとも、悪意によって自分の体を支配できるだということを、転がり落ちていく幸子を見ながら思った。
 


「何か、欲しいもんあるか」
 
 売店で、幸子のいない空気を吸いたかった。

「あなたって、本当にわからないのね」
 


 小さく窓の方を向いて、精いっぱい俺を拒絶している。
 


「今そんな質問するなんて」
 

 
「すまん。」
 何に謝ったのか彼女はこの先もわからないだろう。いや、もう分からなくていい。
 もう二度と手に入らないのよ、という彼女の声は、閉まっていくドアの音に遮られて聞こえなかった。

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