文化的壁打ち


今日も今日とて在宅ワーク。

どこをどう間違ったのかキャリアコンサルタント的な仕事をしており、しかしこのご時世で対面での打ち合わせができないのでもっぱらメールで履歴書を読みまくる日々。

当然相手は文章のド素人であり、面白いモノを書いてくることなど万に一つもないので添削に次ぐ添削、校正に次ぐ校正によってなんとか読めるものに仕上げていくのだが、大抵の人間は「読める」ようにするだけで一苦労だ。

noteの猛者たちの文章に慣れていると発狂しそうになるが、まあそれでも履歴書は面白くある必要がない。
しかし面白いに越したことはなく、そもそも読む気にならない文章をよこしてくるような奴と会いたいかと言われると俺は是非御免こうむりたい。

一定の文章に「型」が求められるように、履歴書や職務経歴書にも良しとされる型があって基本的にはそれに寄せていくのだが、文章ではなく文脈を読むような作業になってしまうのが少しく悲しい。
世の中的に、あるいは就職サイト的に、「これはいい自己PRだ!」とされるものなど文章としての価値は無いに等しいのだが、しかし、慣れてくるとこれが良いものに見えてくるのだな。

その場限りでしか通用しない書き方と読み方を双方がインプットした上での文字のやり取り、つまりこれは一種の方言でしかなく、それを使いこなすことがイニシエーションとして働く仕組みについてバカバカしいと思うのは当然なのだが、それでもこの儀式が一定の評価を得ているという現実を見るとまた考えねばならないことが増えたなあと思う。

様々な物事を客観的に見ることができます。自分の考えとは相容れない意見であっても反射的に否定せず、その思想が生まれた背景や環境を想像して一度自身に取り込むことで、広い視野で多様性に配慮した判断をします。
御社においても、ともに働く方々やお客様の考えを尊重し、皆々様に寄り添う形で貢献したいと考えております。

実在しない人間の実在する関係性に心砕かれる毎日 https://www.amazon.co.jp/hz/wishlist/ls/1YN6R4IANN7NG