【えいがかんそうぶん】しまじろう まほうのしまのだいぼうけん
「映画しまじろう まほうのしまのだいぼうけん」を観ました。
観てから30分経ってやっと落ち着いてきました。
すごく支離滅裂にはなりそうですが何とか感想を纏めていきたいと思います。考えること、想うこと、物語ることが僕の魔法なので。
※ネタバレあります ※今はとにかく要素列挙します。後々追記するやもです
1.マサオくん「どうせ僕なんてしんちゃんみたいに選ばれた人じゃないんだ!」
映画クレヨンしんちゃんの予告で泣きました。「兄弟子の俺についてこい」って言ってからこうなるの辛すぎるでしょ…
2.扉が開く
今振り返りながら気付いたんですけど、ドリル三兄弟自力でベルナ級の魔法を出せる機械を発明してたってことですよね…たとえ制御できなくても。努力の結実…!
3.しまじろうとお母さんの朝のキッチン、スープ取り落としの一件
背伸びしたい子供と心配する大人のすれ違い…切ない…。あとカメラワークと音響が「とんでもないことをしでかしてしまった!!」感を煽って芸術的。
3.5 「まほうのしまに出発!」って言うしまじろうがカメラ目線で、こちら側を認識してる感がある
4.まほうのしまの残酷な歓迎
「ちゃれんじ島から来た人は魔法を使えない」ではなく「しまじろうは魔法を使えない」、あまりにも残酷…。
そして悪意無く「魔法が使えないなんてあり得る???初めて見た!」って言っちゃうのもまた残酷。単品でしまじろうにかける言葉としても鋭利なんですけど、これつまり「魔法の島民はドリル三兄弟の問題を想像すらしなかった」ってことで…しんどい。
5.ちゃれんじ島民から魔法民へのステッキ返却、拒絶としまじろうの許容
「しまじろうを馬鹿にするなら」魔法のステッキなんて要らない。強い…。そしてこの「いわゆる当たり前の友情シーン」をお母さんが大事なファクターとしてもう一度取り上げるのもいい。
加えて、「自分ひとりのために険悪にならないで」と言えるのも強い…けど哀しい。
6.ティンガリンガブーのうたの後ガオガオエースがキメポーズしてるのよくない???
あと、はなちゃんからサッとステッキ取り上げるお母さんがしんどかった
7.アウラ覚醒!
危機が迫り、ひたすらに純粋なきもちになったアウラが魔法を振るう。そこまでにちゃれんじ島民トリオが応援を受けて「みんなのちから」で魔法を使ったのに対して、アウラには応援フェイズがないんですよね。アウラ自身の問題を、最後に解決できるのはアウラだけだから‥。
8.らむりん(幕間ゲスト)
休憩ということでぼーーっとしてたらああ言う出方するのかよ。反則だよ。アウラが「知らない子がね」って言ってたのに対して、ちゃれんじ島民は「誰だろう…?」程度のリアクションしかしてなくて優しいつくりだなと思いました。しまじろうたちはらむりんを忘れていない(かもしれない)…。
9.アウラはなぜ花のステッキを使えなかったの?
「自分じゃない誰かのため」に振るわないといけない花のステッキをアウラが使えなかったのは、「アウラがベルナに褒めて欲しかったから」。「春の魔法をみんなのために」が自分の原動力と思って挑戦して失敗して、その後気付くってつらい。自分が嘘をついていたことに失敗してから気付く…。
このシーンが一番泣きました。「創作するのはなんのため?」「物語を届けたいから」それとも「自己顕示欲」?「応援はあの人のため」?「働くのは何のため?」…。オタクとして、人として、物事へのスタンスを自問自答してる身としては凄く刺さりました…。
10.それを受けて、しまじろう
「褒めてもらいたいからやってもいいんだよ」
泣くわそんなまっすぐな言葉ァ…
11.ドリル三兄弟、花のステッキ奪取!
最初の一振りが青色(誰かのため)だったあたり、ドリル兄ちゃんがいい兄貴なのがわかる…
12.「はじめまして、ぼくしまじろう!」「あっ ぼくカナヅチ!」
アイサツをされればアイサツで返さねばならぬ。チャイルドコミックの絶対不可侵の掟である。古事記にもそう書いてある。
13.村を襲う三兄弟対ちゃれんじ島の四人 花のステッキ争奪戦
妨害として「巨大なお菓子」を生成するの、「いつもお菓子を盗んでばかり」の三兄弟がとっさに引き出した願望でコンプレックスの象徴なんだよな…。美味しいし…。
14.赤い雪の吹雪
停滞と凍結の魔法が平穏も、憧れた巨大なお菓子さえも破壊する。
15.とりっぴぃの魔法
「楽しい気分にする」だけの祭りの準備にも窮地にも使えなかった魔法が、ここぞで恐怖から助けてくれる。娯楽ってそういうものかも。
16.しまじろうがお母さんを心配する
触れたら即行動不能の吹雪の中に飛び出すお母さんを、最前線から心配するしまじろう。キッチンや今までと構図か逆転することで、「なんでお母さんはぼくが何かするたび『やめなさい』って言うんだろう?」を実感としてわからせる。お母さんから観ても然り。脚本の妙…!
17.ドリル三兄弟の贖罪
「手の届かない当たり前」ではなく、「自分たちにだけできる特別」を認めてもらう(みとめあう)ことで心を救う…特に「自分たちすら特別と分かっていなかった価値」を認められる。素晴らしいよな…救われたい…
18.アウラの贖罪
ドリル三兄弟が「できる」なら、アウラは「したい」。自信と意欲の両輪をどちらも認めてケアできてて最高でしたね…
19.別れ際のとりっぴぃ
「楽しい気分にする魔法」でも涙は収まらないんだよな……
20.後日の散発ツイート
性質の違いについて。いわゆる「空飛ぶ箒」のモチーフアイテムの違いが二人の物語上の役割の違いかな~と。
挿入歌について。テーマを適切に表現しつつ、ストーリーの文化を示しつつ、それでいて「直接的じゃない」って見事だよな…。
「魔法が使えないこと」に対する論。改めて見直すと、これ作中の論理としては正しいし「ある能力のない人間は、しかし別の何かがある」と現実に適用してもいいんだけど、「ならば別の能力を代替にして折り合いをつけて生きてよい」に現実は(完全には)ならないのがつらい。
まほうのしまの人のメンタリティについて。なぜ友情に弱いのか=友情や協力が普段から無いから=独立独歩、個人で生きる(生きられる)から?やはり彼らは現代人なのでは?
脚本が巧み…
・総評
「チャレンジする」ためには「したい(未来/意欲/自己肯定)」と「できた(過去/成功体験/承認経験)」が両輪として噛み合ってないといけないんだけど、それらが上手く回らなかったキャラクターたちの心を丁寧にケアしていく名作でした。それを、親と子、できるとできないの両側から描いていって、かつ過不足無く60分に纏めたのは実に見事。
誰に観てほしいじゃない。誰にだって観てほしい作品でした。
取り急ぎこんなところで!!