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ギランバレー症候群覚書②

ギランバレー症候群疑いで治療開始

ICUの待合室で、待っていると、20時頃になって、神経内科医の先生が来てくださいました。先生からは、心臓が原因だということが否定されたので、神経内科がメインとなり、ギランバレー症候群疑いで治療を開始すること、具体的には免疫グロブリン製剤の大量投与とステロイドパルス療法の併用をするという説明がありました。
ギランバレー症候群で、呼吸抑制まで至るのは最重症例であり、早く治療を開始する必要があるので、確定診断をする前に治療を開始するということのようでした。確定診断には髄液検査等が必要なようですが、早い治療が大事だということだそうです。最初の病院で1日半無駄にしたという思いでいっぱいでした。

治療と今後の見通し

・ギランバレー症候群は、免疫が暴走して神経を傷つけてしまう病気です。
・人によって経過は様々ですが、通常は手の痺れや下肢の脱力など、末梢神経の症状から始まります。
・呼吸筋の抑制にまで至るのは重症例です。
・呼吸が弱いので、呼吸の管理のために、人工呼吸器を気管に挿入しました。これは意識があると苦しいので、意識レベルを下げる薬を使います。
・人工呼吸器からいつ離脱できるかは分かりません。
・ずっと意識レベルを下げている間に、74歳という年齢ですと、認知機能が低下する可能性があります。
・手足の麻痺に関しては、どのくらいあるのか分かりません。数か月、数年の長期的な治療になると思いますし、どこまで回復するかも現段階ではいえません。
・心肺停止の影響についても、今は分かりません。
・免疫グロブリン製剤の大量投与とステロイドパルス療法は、免疫の暴走を抑える治療です。既に傷ついた神経を治す治療ではなく、神経を治療する方法はありません。神経の回復は自然治癒力に頼ることになります。したがって、どのくらいまで治癒するか、治癒のスピードなどは一人一人違います。



後悔

私は、「ギランバレー症候群だと最初から思ってました。」と言ってしまいました。前の病院の時からそう思っていたのですが、専門家に口を出してはいけないと思い、言えませんでした。
私の子どもが、5歳の時に川崎病になり(これも免疫の暴走の病気です。体質的に関連があるのでしょうか?)、その時も免疫グロブリン製剤の大量療法を受けました。
そのときは、3日くらいかけてだんだん調子が悪くなり、最後には目の充血など典型的な川崎病の症状が出ていました。ただ、近くの小児科では、5歳で川崎病になることはないので、医師からは帰宅して様子を見たらと言われました。私は様子を見ている間に、ネットで見られる範囲の医学論文や公的な報告書を調べており、5歳でも川崎病になることや5歳で罹患すると予後が悪いという情報にも接していたので、「様子はずっと見ていたし、絶対に普通ではないので、大きな病院への紹介状を書いてください。タクシーで行きます。5歳で川崎病になると予後が悪いという情報もありました。」と食い下がりました。
医師は、「ネット情報をもとにいろいろ言うお母さん」にうんざりした様子でしたが、「5歳で予後が悪いのは・・・・。」とはっとした顔になり、「見過ごされやすいからかも。そうですね、一応血液検査をして、基幹病院への紹介状書きます。」と言ってくださいました。
結局、その血液検査で川崎病を示す数値が出て、基幹病院に転院し、そこですぐに治療を始めてもらうことができました。基幹病院に着いたときには、意識がなくなっていたので、食い下がって良かったと思います。
今回、子どものときほど食い下がれなかったのは、心臓や脳の影響が否定できないと思ったのと、川崎病のときほど確信を持てなかったからです。
最初の病院は、曲がりなりにも病院で、医療の専門家の集団です。脳、心臓、肺、血液検査で全く異常がないのに、呼吸機能の低下、嚥下機能の低下が起こっているのですから、ギランバレー症候群を疑い、呼吸停止に至ることを予測して、緊急搬送してくださればよかったと思います。
ただ、もっと強く言えば何か変わったのかな?と思います。
私は、空気を読んでとても失礼な最初の病院の医師に遠慮してしまったことを、長い間後悔していました。
家族の直感というのは大事だと思いますので、遠慮し過ぎは禁物のように思いました。

医師の説明について

医師の説明は明快で、今後の最も厳しい予測をきちんと説明したものでした。
私は、呼吸停止が20分もあったのと、呼吸機能系の神経はかなり傷んでいるだろうから、人工呼吸器から脱することができず、その間に認知機能が衰えてしまうだろうと思いました。また、筋力も低下してしまうので、元の生活には戻れないだろうとも思いました。
もう二度と母と話すことはできないんだ。日常ってこんな風に突然終わってしまうんだ・・・と絶望していました。
父は、「すごくよく分かりました。ありがとうございます。」と理解している様子だったのですが、あの病院にいれば安心だねなどと楽観的で、もしかしたらあまり説明を理解していないのかな?と思いました。
後から聞いたところ、動転していていて、実はよく理解していなかったそうですが、後で私に聞けばよいと思っていたそうです。免疫グロブリン製剤の投与には同意書が必要ですが、治療してもらうしかないんだしと黙々と同意書に記入していました。
そんなものなのかもしれません。

母の様子を見せてもらい、帰宅

いろいろな処置が終わったとの事で、母の様子を見にICUに入らせてもらいました。人工呼吸を始めいろいろな機器がついていました。看護師さんに意識レベルを下げる薬を使っているのですか?とお聞きすると、「それが・・・薬は使っていないんです。薬を使う必要がないほど、意識レベルは低いということです。」と言われました。
父は、苦しくなくてよかったねぇと言っていましたが、私は、母の生命力が弱っているように感じ、さらに絶望を深めていました。

帰宅、絶望の週末

待っていてくれた叔父夫婦の車で帰宅しました。こんなとき、一緒にいてくれるのはありがたいです。
この日は金曜日でした。父は、家事能力0なため、とりあえず、炊事、洗濯について、明日プランを立てようと話し、今日は、これとこれを食べたらいいよと冷蔵庫にあるものを示して、帰宅しました。
翌日の土曜日に、父のところに行き、洗濯の仕方、トイレ掃除、部屋の掃除の仕方を教えました。現代の家電はとても簡単に使えるようになっているので、すぐ覚えてできるようになりました。
もしかして、同居していた祖母や母が何もやらせなかっただけで、実は能力は高いのかなぁなんて思いました。妹も、子どものピアノレッスンのために土曜日は実家に来ていたので、父は4歳の孫と遊んだりして気が紛れました 妹は、引き続きのつわりで実家ではぐったりと寝ており、実家と自宅の送迎、ピアノレッスンの送迎は私の夫がしていました。それでも、来てくれるのはとてもありがたかったです。父も孫が来て一週間の経過が分かるので、リズムがついてよかったのではないでしょうか。
日曜日になり、私もやっと料理をする気になって、実家の冷凍庫にあった鮭を焼いて父に持って行ったところ、父はポロリと涙をこぼしていました。
いろいろな思いがあったのだと思います。
父には、セブンミール(店舗に17時半以降に取りに行くタイプのもの)を毎日注文することにしました。毎日何かしら外に出ることでリズムがつきますし、その時にパンや牛乳を買ったりできるようにという妹の発案です。
 私も、多めに作ってタッパで持って行っていましたが、仕事があり、毎日夕飯に間に合うように準備するのはプレッシャーでしたし、長丁場を見越して無理のない体制を整えたつもりです。

 家族が同じ方向を向いて頑張っているという感じがしましたが、私は、金曜夜の母の様子と先生の説明で絶望していましたので、真っ暗な未来しか見えていませんでした。


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