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母なら、ミサイルだって止められると思っていた。
2019年8月20日 音楽文掲載・2019年9月月間賞入賞。
2019年9月13日 rockinon.com掲載。
これからの文章の大半が音楽文らしくないかもしれないけれど、書かせてほしい。
これが私の人生で、だからこそ届いたものがあると思うから。なんだかもう、私はこのことを書き記さなければ、どこにも行けない気がするから。
少しだけ、暇な人だけ、良かったらきいてほしい。
《 暇な奴だけ聞いてくれ 俺は此頃つくづく思う
俺たちゃ 何で生きてんだ 》
シャンソン歌手の母と、ピアニストの父。
3歳の頃に二人は離婚し、母に姉と共に引き取られた。
音楽で生きる両親のもとにうまれた私は、2年前まで音楽がなくても生きていけると本当に思っていた。
父は酒と煙草とギャンブルと女が好きという、典型的な音楽しかできないろくでなしだった。
離婚後、娘の気を少しでもひくためにペットを飼っては、面倒が見れないような人で、駄目なことだけれど、父のそんな不器用な気持ちが嬉しかった。
中学生になるころ、母から父が酔って警察沙汰をおこし服役することになったときいた。
成人するまでは今後会わないことにしたいと相談され、私はそれが当然のことだと、母のためにも約束をした。
数年して父親が出所し、蕎麦屋でバイトをしているときいて、時々、偶然父と出会うのではないかと想像することがあった。でも成人するまでは会わないと、意地になって考えていた。
実際、母と姉と私の三人で出かけている時に、前方の車に乗る父をみかけたことがあったけれど、私はとっさに助手席に身を埋めて、顔を合わさないようにした。
いつかに届いた葉書には、どこから聞いたのかその時ドーナツが好きだった私に向け、いつかミスドでデートしようね、と書かれていた。
母に一度、相談されたことがある。
あんな父を私たちが支えた方がいいのだろうかと。その時、冷静を装って、今後どれだけ迷惑をこうむっても、それでも良いという覚悟なら良いと思う、でもそれが出来ないならすべきではないと、母に苦労をかけてしまうのが嫌で、人の相談をうけるように答えた記憶がある。
それから少しずつ父が音楽仲間にピアノを弾く仕事をもらっていて、変わってきているみたいだときいた。
8月23日。17歳の時だった。
起きたら母が電話をしていた。電話を終えると母が「パパ死んじゃった」といった。
「うそだ」といって座り込んで泣いた。嘘じゃないとわかったから泣いた。
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