禁酒日記20日目
朝は食わず。街まででかける。ドクターマーチンでハルメン・ステーンウェイクのヴァニタスの8ホールを買う。昼はフレッシュネスバーガーの塩レモンチキンセット。夜は美味しい料理をいただいた。
猫カフェに行った。猫カフェに来ている客のほとんどはおもちゃやおやつで猫の気を引こうとする。俺は猫を飼ったことはないが、そのようなもので猫の気を引こうとするのが「猫好き」の態度なら、猫は人間に飼われない方がいいのではないかと感じた。猫を飼わない人間が勝手に猫に仮託しているイメージは、自由気まま、というものである。決しておもちゃやおやつに衝動を支配されて人間の都合のいいように愛玩される動物ではない。猫の習性を熟知した「猫好き」からすれば、猫とはそのような衝動に支配されている生き物以外ではなく、人間の都合の良いように愛玩するための高機能なぬいぐるみ程度のものに他ならないのかもしれない。しかし俺は猫になにがしかの勝手な期待を持っている。猫には勝手気ままに生きていて欲しい。それがどれだけ愚かな道であったとしても、賢い人間様に善道など絶対にされないで欲しい。やりたいことしかせず、やりたくないことは絶対にしないで欲しい。人間の都合などお構いなしに一日中眠りこけたり、夜中に人間を叩き起こしたりして欲しい。自分の都合だけで生きて欲しい。そういうイメージを持っている。自己中心的に生きられない俺の代わりに、猫は限りなく自己中心的に生きて欲しいのだ。自己中心的に生きていても良いんだということを、俺に見せて欲しい。
あるいは猫カフェにいる猫が、そういう環境に適応した猫なのかもしれない。人間の気を引くことでおやつがもらえると学習した猫は、自然にそう振る舞うだろう。それは俺の期待したい猫とは違う。俺の猫への期待も勝手な期待であり、猫自身の猫像とは異なるだろう。しかしそれでも馴致された猫は見たくないし、猫を手なづけようとしたり撫でようとする人間たちのあさましさは耐え難い。
猫と同じ空間にいてまったり過ごすだけではダメなのか。俺はそれで十分なのだが、休日に猫カフェにやってくる層はそうではないらしい。猫にさわれなければ意味がないと考えるらしい。おもちゃやおやつで猫の衝動を支配して、それでもダメなら追いかけ回したり寝ている猫に近づいて無理矢理触ろうとする。彼女ら彼らにとって、猫カフェは性風俗のようなものらしい。金を払っているからには触らせろ、という根性が見える。そして餌をもらえることを学習した猫とのWin-Winの関係が成立するわけだ。なんだか人間社会でも似たような搾取構造を幾度となく見たような気がする。
俺は猫のいる空間で音楽を聴いたり本を読んだりしたい。自由気ままな存在がそこにいるというだけで、自分の自由気ままさも許されるような気がする。その空気を味わいに猫カフェに来たのだ。だが実際そこで展開されているのは衝動を支配することによる搾取だった。猫すら資本主義に組み込まれ(金を払うから触らせろ)るこの社会では、自由気ままに生きることは格別な難しさがある。
その空気を味わいたければ俺自身が猫を飼うしかないのだろうが、そうなったら俺は猫の世話のために、ますます自由気ままでいることは難しくなる。俺は猫を遠くから眺めるだけで一生を終えるだろう。
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