お蔵入り小説集#3(文フリ特別号)
文フリ原稿やるぞーと思って没になったもの集です せつない…
◎得体の知れないクラスメイトの話
前書いたやつをリメイクしようと思ったやつ 前よりおもしろくなくなったので断念
シャツがどうしても張りつく。放課後の教室は当たり前だけどクーラーがついていないから、汗をかきっぱなしだった。優佳里の声に合わせてはしゃぎながら、やっぱり張りつくのが気になって、優佳里が声をあげるけどなにに対してそんなにはしゃいでいるのかわからない。剥がしたりくっついたり、優佳里がくっついてくるから扇風機を陣取ったりしている間に、自分のことしか考えられなくなった。「ねえ、アレやっぱ古澤だよ。ねえ、りつかあ」進路どうしよう、とか、なんかなにもうまくいかないな、とか。進路希望調査の締切日がぽかんと頭に浮かんでからは、頭がそれでいっぱいになった。扇風機の頭を自分の向きに固定する。「聞いてんの? おーい、りっちゃん」
「締切って十七だよね」
「なにが? あ、古澤行っちゃった。えあれ一年のマネージャーじゃん仲良さそー」
「優佳里、悪いけど」
ガガガ、と扇風機が音を立てて抵抗するから、放してやる。扇風機は元のように優佳里のひとつに結んだ髪も揺らそうとして、スプレーでかちかちに固めてあるそれの前ではうまくいかなかった。「あれ相当仲良さそうだよ。なんか気ありそうな感じ。律歌ちゃんもさあ、そろそろ」
「悪いけど、今日もう」
「うかうかしてらんないんじゃない」
窓から身を乗り出していた優佳里が振り返って、まともに目が合う。なんか言った、と優佳里が首をかしげる。優佳里の硬い髪をほぐしながら、そうなんだよねえ、とつぶやく。「やっぱ、ちゃんとしないとだめなんだよ。優佳里も、そう思うんでしょ」「お、やる気か?」「だから、今日は帰るよ」
「え。なに。アイス食べよーって言ったじゃん。え、ほんとに行く気?」
優佳里は、わたしと窓の外とを交互に見て、うち一緒じゃなくていいの、と心配そうに言う。締切は今日から五日で、そんなに焦るほどでもないのかもしれないけど、わたしは教室から遠ざかるほど走る速度をあげた。シャツはもうべたべたで、剥がす元気もあったもんじゃない。ローファーを脱いだらどこもまともに歩けないのだということが、どうしても怖かった。優佳里はどうしてあんなに呑気なんだろう。
写真を撮ろう、と思った。担任に渡されたデジカメには、おおよそのクラスメイトの笑顔と、あとは優佳里のふざけた姿が残っているはずだった。その中には、古澤の姿もあるはずだけど、どんなふうに撮ったかはいまいち覚えていない。なんとなくそういうふうな空気に乗っかっただけで、優佳里がおだてるほどわたしたちは仲がいいわけではなかったし、第一前髪が短いことしか思い出せないのだから、気があるとかも嘘だ。
写真に写っていないのはあとひとりで、その子は目の前にいた。日誌を静かに閉じて、斜め前の席、長い髪を垂らしてペンを一心に動かしている彼女を窺う。教室にふたりきり、と思って、息がつまる。彼女はそういう存在だった。わたしが今ため息を吐いたとして、彼女の指先は怯えたようにふるえる。彼女はそういう存在だった。彼女のことは、クラス全体が常に気にしているように思う。彼女は決して目立たないけど、目が大きかった。その大きい目でなにを見つめているのか、みんな密かに、知りたがっているのだ。
丸まった背を眺めながら、今ここでシャッターを切ったとして、彼女はどういうふうに写るのだろう、と想像する。日の当たる切れ毛が現実以上にきらめくのかもしれないし、まつげの微細なふるえを捉えるかもしれない。その想像はわたしを捉えて離さず、だからわたし、それが見たいと思った。
音を立てないように立ち上がって、彼女の後ろに回り込む。ほっそりした横顔を厚い黒髪が覆って、ときどき湿った風に揺れる。彼女は手を止めない。デジカメの画面には光が溢れていて、思わず目をつむる。彼女を通過した日差しがそのまま、彼女から漏れてくるみたいだった。
シャッターに指を添える。息を呑む。彼女を撮れるとしたら、この一回きりなのだと、なぜか強く思う。ぐ、と指を押し込む感覚がある。彼女の髪のひと束が、はらりと落ちる。ひときわ強い風が教室に吹き込んで、ばさ、となにかが風に煽られる音がして、わたしは思わず目をつむって、彼女は振り向いた。シャッターの間抜けな音が鳴ったのは、それからワンテンポ遅れてのことだった。
「渋谷さん」
少し掠れた声が、わたしを呼ぶ。「あ、うん、なに」
「撮ったの」
「あ。そうだね。三井さんのだけ、なくって。写真。それで」
「アルバム。載るの」
「まあ、載せる用にって、頼まれてたから」
三井さんはぱちっ、ぱちっ、と一回一回擬音がくっつくようなまばたきをして、それから視線を落とした。それから、ふと気がついたようになにか書き込んでいた紙をひっくり返す。進路希望調査票だった。三井さんは無表情のままだったけど、明らかに困っていそうだった。アルバムに載りたくない理由があるのだろうか、と考えてみる。それから、それは違う、ということがすぐにわかる。
「ほかにどんな写真使ってもいいから。それは、消してくれるかな」
「でもこれ、よく撮れたよ。見て」
デジカメを差し出すと、三井さんの顔がぐっと迫る。画面にじっと見入ってから、たしかに、とつぶやく。湿った唇の動きに、脳のどこかが刺激を受けている気がする。三井さんがしゃべるたび、ぼうっと目の前が霞んだ。画面とわたしの顔を何回か往復したあとで三井さんは、唇をきゅうっと結んで、笑った。
「渋谷さんなら、もっといいの、撮れるよ」
三井さんが言うなら、と写真を改めて眺める。ぼやけた光を背景に、カメラを向いた三井さんが目を見開いている。映画で言うなら出会いの場面で、その一瞬を残しておけないのは残念だったけど、手元の、裏面のメモ書きを見つけて、そうか、と思う。
「進路見られたら、はずいもんね」
そうだよ、と三井さんははにかむ。「また撮って。今度はちゃんと、そっち見るよ」
三井さんは進路希望調査票を几帳面に四つに折り畳む。真剣に角を合わせて、折り目に爪を立てる。わたしも三井さんに、そうされたい、と少し思う。だから、大きく口を開けた鞄に、どうでもよさそうにそれを落としたとき、わたしまで雑にされた気がした。ファスナーを端まできっちり締めるところまで見守ってしまったあとで、外が曇りはじめていることに気がつく。三井さんを照らす光はもう、なかった。
「もう今日じゃないほうがよさそうかな」
わたしが言うと、三井さんはゆっくりと窓のほうを向く。少し首を傾げたあとで、そうかな、と言う。「私、曇りのほうが似合うって、言われたことある」
「じゃあ、撮る?」
「渋谷さんが、いいなら」
◎美術部の女の子たちの話
なんかまあ、いいかーと思って書くのやめたけど、これは書いてもよかったかも
りなちゃんの白い歯が、クッキーの丸い形を丁寧に削いでいく。ピンク色のべろがときどき唇を押しのけるように現れて、食べかすを舐めとってしまう。それはちらちらとわたしの様子を窺うように動いてから、一気にべろん、とその長いからだをあらわにした。わたしは目を逸らす。制服に絵の具がこびりついているのを見つけた。合わせてりなちゃんがしゃべる。
「なに見てるのー」
「みてないよ」
「ふーん。早く食べないと、先輩来ちゃうよ」
「あ、そうだね」
りなちゃんに棲むピンク色は、大人しく中に戻っていった。それで安心して、包み紙を開く気になった。ごく普通のクッキーも、りなちゃんが作ったのだと思うとなんだか、ほんとうよりもずっと甘いような気がする。こんなに甘いもの、食べていいのかわからなかったから、数回口の中で砕いて、もったいないのはわかってたけど水筒のお茶で流し込んだ。
「やっぱ見てたでしょ」
「みてないってば」
「でも、わかるよ」
「わかるって、なにが」
「りなもたまに、あずのこと見ちゃうとき、あるよ。一緒じゃん」
「だから、わたしは見てないよ」
見る、という言葉を辞書でひいてそのまま実行してみせるみたいに、りなちゃんはわたしを見た。大きい目に写ってるのはわたしばかりだ。あたしたち友達だよね、なんて言わなくても繋がってみせられることが、いつも嬉しかった。りなちゃんはわたしの目を見る。心を見る。「あ」りなちゃんが声をあげる。「なに?」りなちゃんは、制服が隠してくれてる、昨日剃刀で掠っちゃった傷あとまで見つける。それで、なにも言わない。「クッキーのかす、こぼれてるよお」そんなふうに思っている。「ほんとだ。うひい」
ティッシュティッシュ、とりなちゃんが後ろを振り返った先には、真っ黒な壁があった。「せんぱい」りなちゃんが、ちょっと緊張して、声を押し出すようにする。ティッシュなら、ここ、と真っ黒な中からささやくような声がして、りなちゃんはお礼を言った。少し揺れて、それで、壁じゃなくて影だ、とわかった。りなちゃんは、黒い影が消えたあとも、しばらくぼうっとして、ティッシュを二枚くらいくしゃくしゃにしてしまう。りなちゃんには、あの声がやさしいものに聞こえているのかもしれない、と思うと、わたしもわたしもってティッシュを丸めてしまいたい気持ちになった。わたしにはただの、ぼうっとした響きにしか思えない。
「りなちゃん」
「んー」
「りなちゃん」
「あ、ティッシュ、ていうか、見つかんなくてよかったあ。ほら、クッキーさ」
「そだね。ありがと」
黒い影は、ぼやっとした色がいくつも乗っかったキャンバスを前に座っていた。ほかの部員が入ってきても、誰ひとり美術部っぽいことはしようとしない。ひとりでじっと座る姿は、亡霊みたいだった。幽霊部員って、ああいうことをいうのかなと、ちょっと思う。違うことは知っていた。わたしがその影から目を離さないでいたのは、りなちゃんの目線の先を追いかけていたからだ。りなちゃんはその日はもう、わたしのことを見る、をしてくれなかった。
夏休み、なにするう、とか話すにはまだ早すぎるよう、と雨が言っている感じがした。夏の話ばっかりで自分が見向きもされないんじゃあ、そうも言いたくなるかな、と雨の気持ちもわかる気がしたけど、りなちゃんがなにする、と訊いたその瞬間から、雨の音は遠ざかっていった。美術室に有志合唱団の歌声がすべりこんで、空気に混じってわたしとりなちゃんを包んでしまう。美術室にはほかには誰もいなかった。
「とりあえず部室、集まろうよ」
「それ、アリ。あずんちってだめなんだっけ? なんかあったっけ。行ったことないよね。なんでか忘れちゃったけど」
「うち、なんもないから」
「そんなの、うちも同じだしー。条件一緒なのに、ずる」
「基準がちがうんだよ。なんもないの基準。て、いうか」「わたしだってりなちゃんち、行ったことないよ」
「え、うそ」
「ほんとーです」
「えごめんじゃあほかの人と勘違いしてた、かも」
「もー」
りなちゃんは申し訳なさそうにしたけど、わたしにはりなちゃんの言っていることがなんとなく、わかった。わたしには、りなちゃんの部屋でそのぬいぐるみに触れたような記憶が、ないのに、ある。柔軟剤の香りがすることも、知っているような予感がある。たぶん、うさぎ。ピンク色。それくらいわたしたちは、自然とずっと一緒だった。
「でもなんか、ずっと一緒にいた感じ、するよね。りなちゃんの部屋になにあるか、想像できる気がする」
「あーたしかに。なにあると思う?」
「使ってないノートとか、いっぱいありそう」
「かわいいやつ?」
「パステルカラーとか、キャラクターのやつ」
「買っちゃう買っちゃう。わかってるねえ」
そうなの、わかるよ、と言いたくなって、黙った。「じゃ、うちにはなにあると思う?」わたしが言うと、りなちゃんはふいにわたしの頬に手を伸ばして、こねるみたいにさわりはじめた。潰したり、伸ばしたりする。爪が伸びてる。美術部とは思えないくらい、指の先まで汚れを知らない。「うーん。なんだろ。でもさ」「うん。なに?」
「りなはそんな、あずのこと知らないから」
ぐい、と頬に強い力がかかる。それから、すぐに離れた。りなちゃんの指の感じを覚えていられずに、痛みだけがじーんと残る。雨の音が様子を窺うみたいに戻ってきた。「だから、わからん。想像できない」
わからん、という言葉はわたしを殴った。実態はない代わりに、頬の痛みを殴られた痛みと思うようにした。りなちゃんに殴られたのだ、と思って、にぶい痛みはすぐには引かなかった。わたしはそれを、拒絶、と思ってしまって、それ以外の答えを探すために早く帰りたかった。
「わからんかあ」
「わからんよお。はじめてしゃべったのって、入学式からちょっと、だから、何ヶ月? まいいや、夏休みはさりな、海行きたい感じよ」
「海行きたいって感じかー」
海なんてこのへんにない。ありきたりだし、お互いの部屋のほうがもっと、うんと特別なのに。とは思ったけど、りなちゃんから発せられるうみ、という言葉のイメージはどこまでもあざやかで、わたしにはじめての海を思い出させようとした。はじめてはたしか、千葉県の海だった。静岡だっけ。どっちでもいい。クラゲが頻繁に出るようになってからは行かなくなった。行きのコンビニで食べるなにかが特別だった気がする。一緒に行くなら、そういう話をするのかな。だから、今はやめておいた。
「りな、銚子いったことあるんだけどね」
「銚子って、千葉? だっけ」
「そうそう。人いっぱいいてさ、お姉ちゃんがナンパされてて、めちゃくちゃ怖かった。シャワー室とかあるけどさ、なんかあれも怖い感じして。クラゲとかいたらって思うとそれも怖いしで。ぜんぶ怖かったよね。今はまあ、全然って感じだけど。思いっきり遊ぶよりさ、海、きれいだねーみたいな。浸りたい感じ」
「あー、たしかに」
「ね」
「そいえば、わたしもたぶん、銚子だったよ」
「あ、仲間」
りなちゃんは退屈そうに欠伸をして、それから、にーっと笑ってこっちを見た。薄い唇が際立って、りなちゃんをよりかわいくさせる表情の、ひとつだった。「かわいい」
言ったのはりなちゃんで、でもわたしも言おうと思ってたのに、なんで同じタイミングだったんだろう。わたしがそのとき、どんな顔をしてたかはわからない。けどりなちゃんがかわいいと言ってくれたそのまんまでいられるように、身をじっとかたくした。りなちゃんがきれいな指で、わたしのささくれの多い指をつっつく。合唱曲がわたしの中で都合よくボリュームを上げて、BGMみたいにがんがん鳴った。「かわいいなあ。あずは」
りなちゃんがわたしから手を離して、頬杖をつく。合唱曲は静かになっていき、かすかな雨の音と混じる。それはなんだかあまいひびきだった。
「海、誰と行こっかなあ」
りなちゃんの目線の先は、見なくてもわかった。抽象画みたいな、モザイクがかったキャンバスがそこにある限り、りなちゃんはとらわれ続ける。雨音は強まり、わたしは海を連想する。少し苦しい。
めがねをかけていることをはじめて知った。珍しく絵を描いていた。クロッキー帳に描いていた絵がなんとなくうまくいったから、水彩かなんかで色をつけてあげようと思ったのだ。りなちゃんが部活を休んでいたからでもある。元の黄色が見えなくなるくらい絵の具でべっとりしたバケツに水を限界まで入れる。思ったより重いな、と思った次の瞬間には、バケツは、わたしの手を離れていた。
絵の一部といえばそうである気もした。薄汚れた水は抽象画に飛び込んで、周りのインクを滲ませた。緑っぽい青と灰色みたいな色が混じって、ほんとうに汚れてしまった。そのことが思っていたよりずっと寂しく感じて、変だなと思う。変でもないか。りなちゃんが、ずっと見てた絵だったから、りなちゃんの視界をわたしが汚してしまったようで悲しかったのだ。パズルゲームの、連鎖みたいに、わたしが飛ばした水はあらゆる色を汚した。本当の海の色に似ている、と思った。
まだ乾ききっていない絵の具が、放課後のオレンジ色の光を受けてつやつやと光っている。使ったことのない絵の具だった。さわると、指先が赤くなる。なんで触ったのかはわからないけど、とにかくなにか、夢中だった。わたしには思っていたより赤が似合う。りなちゃんは何色だろう。白い余白に、指先を押し当てる。わたしの指紋が、どうしようもなく残ってしまう。
美術室には誰もいなかった。今日は合唱団の声もしない。吹奏楽部のまぬけたような基礎練習の音だけがする。乾いていない絵の具を探して、ぜんぶを指で擦った。自分の呼吸がこんなに近く聞こえるのははじめてだった。りなちゃん、ごめんね、わたしなんか、おかしい。ごめんね。ごめんねりなちゃん。
「ごめんね」
手が赤い。誰に怒られるんだろう。あの影の人が怒るというのはどうにも想像しにくかった。顧問の先生は、ほとんど見ないけど、こういうときだけ出てくるんだろうか。余白はもうない。わたしはほんとは、りなちゃんが部活をサボっていることを知っていた。どこにいるかも知っていた。りなちゃんのあまい声で、部活、ちょっとだるくない、とか言ってくれたらわたしは、喜んでその先の言葉を待ったのに。サボっちゃおうよ。そうだね、りなちゃん、わたしもそうすると思う。一緒に抜け出したかった。これで最後、と思って、手に残ったインクを、もう泥沼みたいになったキャンバスにこすりつける。気付いたら泣いてた、みたいなことにはしたくなかった。
キャンバスの端っこに、めがねがちょんと掛かっているのを見つけた。黒い太いフレームだった。視力の悪いわたしには度が強すぎて、かけてみると、視界がいっぺんにぼやけた。あの影の人は、めがねをかけているのか。なんだか予想通りすぎて、拍子抜けだった。さっきの抽象画はもっとぼやける。ふらついて、誰かがわたしの手を取った。
「なにしてるの」
◎ピンクのツインテールの女の子の話
ピンクのツインテールの女の子の話が書きたかったんだよね まず二次元的な女の子の話書きたかったのがそれならピンクのツインテールの女の子の話書きたいなってなったんだよね やめましたが これも書いてもよかったかも 1.2.3はバラバラに書いたのでとくにつながってない
1
俺にはギターの弾き方がよくわからない。授業では一通りはじいたから、わからないというよりは興味がないのだろうと思ったけど、自分がギターに興味がないという事実はなんとなく信じたくなかったから、倉庫からおじさんのギターを借りてきた。俺には、俺は将来、バンドマンになるのだろうという、もはやそれしかないような予感がある。それしかないのなら、俺はバンドマンになる。それはほとんど確実だ。だから興味がないわけはなくて、でも俺には、手元にあるギターの種類もわからなかった。
それでも、ざらざらでも、触ったら心臓が数センチくらい浮く感じがした。教室に持っていったら最強になれる、ととっさに考える。それからはもう、ひたすら妄想と現実を行き来した。俺は放課後の教室にいる。弦をはじくと、思ったよりも硬い。それすら手懐けている俺がいて、教室にはオレンジ色の光、びいん、と定規を曲げたときのような間抜けな音がする。ギターを弾いているっぽい構えを取る。べよん、べよん、と音が鳴る。教室の床の埃が舞って、クラスの誰かが現れる。驚いたような表情で、こっちを見る。誰かと目が合う前に、俺は俺の部屋に戻ってきてしまった。灰色のパーカーに埃がいくつかこびりついて、これ以上がっかりさせないでほしかった。こんなもんかよ。こんなもんだった。時計を見るために、顔を上げる。西日がまぶしく光る。誰かと目が合った。
「え」
夕日がピンク色の髪の彩度を極限まで上げて、最初の印象のほとんどはピンク、だった。ピンク色がいる、と思って、一旦目を閉じた。まぶたの裏で、緑色の影がうようよする。目を開けると、まだピンクで、でも今度は、ピンク色の髪をした人がいるのだということがわかった。アニメでしか見たことないような高い位置のツインテールで、その人は俺をじっと見た。はっきり縁取られた唇が動く。
「集中してたみたいだね。だいぶ」
「なにが? てかその前に、誰」
「もなか」
「もなか?」
「きらん」
「きらん?」
「そうだよ」
「なに、なんの話、それ。俺、ひとりでギター弾いてて、それで。目、合ったけど、あれは想像だったし。誰、ほんとに」
「最中綺爛」
「なにそれ。名前なら、だいぶ変だけど」
「名前だよ。変でごめんだけど。わたし、今日からこのお家でお世話になります。最中綺爛っていいます。よろしくね。君は名前、なんていうの。苗字は知ってるんだけどね、あ、名前も、さっきお母さんが呼んでたから知ってるんだけどね。ご飯の時間だって言ってたのと、あと、なんだっけな。それはいっか。あ、わたし、ギター弾けるんだよねこう見えて。こう見えて、っていうか、どう見えてるのか知らないけど。教えてね、あとで。じゃあ、これからよろしくお願いします。宇津木りんくん。行こう」
2
「あ。テレビつけて、テレビ。天気予報見せて」
布団から手だけが伸びて、幽霊かと思う一瞬がある。それから、ピンク色の髪の幽霊なんていないだろうと気がついた。モナは手を動かすのも億劫というふうに、わずかに指先をふるわせるだけで、半分は夢の中だった。モナの指は夢の中でも器用に動いているのに、俺はネクタイをうまく結べない。一回、二回できないと、ずっとできない。焦れているうちに時間は過ぎて、それはモナも同じだった。
「あの、自分の部屋にテレビあるって、すごいよね。中学生でしょまだ。そしたらもう、人気者じゃん。家に来た友達みんな、お前んちすげえなって言うと思う。大画面でゲームやり放題だもんなあ。すごい」
モナは布団と枕につぶされたまんま、そんなことを言った。すごいよ、とうわごとのように繰り返す。俺はまだネクタイを結べてない。「ようするに?」「ようするに。恩恵に授かりたいってこと」
「俺は今、忙しくて」
「わかるんだけどね」
「起きてきて、自分でつければ」
「そうなんだけどね」
「あと俺、友達いないし。誰もすごいなんて言わない」
「あ、そう。そうなんだ。それは、そうか」
モナは一回布団に頭まで潜って、何事かつぶやいた。そこから一気に、布団から這い出る。ネクタイがへんなふうに曲がっていて、モナに見られないようにカバンに押し込んだ。ついでに第二ボタンもバカらしくて開ける。
「じゃあ、わたしが最初だ。君の部屋のテレビをすごいって言った、はじめての人。はじめてがあるなら、二回目もあるよ。三回目もあるし、この先ずっとあるかなあ。よかったね。ネクタイ結べないのと、いっしょ。ずっとネクタイ結べない代わりに、テレビ褒められる人生になるよ。いいねえ」
モナの頭頂部の短い毛が、陽に照らされてふよふよと浮かぶみたいに光る。モナは出会ったときから、光ってばっかりだ。白い歯が見えて、それも光を受ける。起きてきた彼女にリモコンを手渡すと、つまらなそうに赤いボタンを押しこんだ。ぱちんっと画面が明るくなり、モナは眩しそうに目を逸らした。天気予報を見て、あ、この人この人、とはしゃぐ。メガネをかけた男性が、関東のある地域を指している。それだけのことが、モナは嬉しいようだった。「なんなの。この人って」
「この人。気象予報士さん。メガネつけてるときと、してないときとで、顔がすっごい違うんだよね」
「今日はメガネ、かけてるけど。いつもかけてなかったっけ」
「そんなわけないじゃん。いつも見てるんだよ、わたしは。今日はどっちかなあって見るのが、日課なの。まあ、じゃあ、晴れだね、傘いらないよ」
「じゃあってなに。今、午後から雨って言ってるだろ。その、メガネの人が」
「そこはだから。なにを信じるかって話じゃないの。わたしか、気象庁か。わたしに見えてるものか、気象台から見えてるものか。わたしか、世界。それだと、言い過ぎかあ。まあ、念のため傘は必要なのかな」
「どっち」
「折りたたみ、持ってったら」
「モナが降らないって言えば、信じるつもりだったけど」
「え、わー。なにそれ」
モナは布団をかぶると、唇を突き出す妙な笑いかたをした。「じゃあ、降らない、って言っちゃおうかな」「言っちゃえば」「じゃ、君が帰ってくるまでは、降らないし、晴れてる。だから、傘はいらない」
折りたたみ傘を入れないだけで、リュックはだいぶ軽くなった気がした。モナは天気予報にはもう興味がないみたいで、足の親指のあたりをじっと見ていた。その目が、険しくなったり、やわらかくなったりする。俺が学校で習いすらしない事象を、モナは見つめているような気がする。その、常に半分夢に溶けかかっているような雰囲気が、俺はちょっと好きだった。ピンクの髪はたぶん、夢と現実の境目かなんかで、だからピンク色は、あんまり現実の部屋に馴染まない。
「じゃあ、いってきます」
「うん」
いってらっしゃい、とドア越しに聞こえる。俺はモナがなにをしている人なのか、知らない。俺にとってなんなのかも、知らなかった。
3
屋上に続く外階段をのぼりながら、モナは今度は、バレるかな? なんて茶化したりしなかった。ピンク色の髪は、青空の下だとやっぱり、異物感があった。モナはいっつも、現実とは少し馴染まない。背景が写真のイラストを見ているみたいなまんま、ツインテールの一束が俺の鼻先をかすめる。そこだけ黒くなったうなじを見つめて、それがかろうじてモナを現実に止める唯一だと思った。地上が遠ざかる。モナは黙ったまま、階段をひとつひとつのぼっていく。
モナは屋上の手前の踊り場で止まって、柵に寄りかかった。目の前のビルの看板をなぞるように読み上げる。「歌い放題、24時間営業、男も女も、カラオケ、あー」「こっちはお茶屋さんなんだ。知らなかった」「いっぱいあるんだね。行ったことないとこって。あ、なんか、いい感じじゃない、あの屋上。あの、手入れされてない感じが、逆にね。あっちにすればよかったかな」
モナは好き勝手しゃべって、それからまた、階段をのぼりだした。横のビルの室外機が近くでごうごうと音を立てる。屋上には入るべきではない、と言う人のほうが正しいのだと、一段のぼるたびに感じて嫌だった。むきになっているのが足音から伝わったのか、モナは半分くらい振り向いて、口の端をゆがめる笑い方をした。一等高いビルは、低いマンションを次々取り残していってしまう。どこかのベランダで干しているシーツは、真っ白にしか見えない。誰かが何色かに染めたかもしれなくても、あんまり遠いから、真っ白だった。
「なんにも見えないんだねえ。ぜんぶ、見えてるけど。へんな感じね」
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