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The White Lounge in CINEMA

(※ぼちぼち書き足していきます)
さぁ遂にこの日が来たな、と。
一体どんな風に映画として形になるのだろうと楽しみにしていた。

流れについては以前のレポで書いている為、ここでは映画を観た個人的な印象を残させていただこう。
彼も言っていたように、実際その場にいた人もそうでない人も、誰もが楽しめる映画であることは確かだなぁと思った。
歌詞に字幕が付いていることも嬉しかった。
映画の為の撮り下ろしシーンもあり、より一層物語に深みが生まれていた。
瞳を閉じることでキャラクターが変わったことを暗示する演出は面白いなと思った。
あの日、自分の目では見えなかった部分に気づくことができるということも興味深いもので。
こんな表情を、こんな動きを。
していたのだな、と。
一人一人の息遣いが感じられて、非常に没入感があった。
ただやはり、自分の目で、耳で、身体で。
全てに触れて感じた「あの日」の感動には勝るものはないなぁ、と。
映画となると綺麗になりすぎる。
それは良い意味でも悪い意味でも。
作品として一種の完成形のようになるからだ。
不足が無い、完全なる芸術品のような。
それが悪いわけでも、嫌いなわけでもない。
ただ私は。
ライブというあの日の、どこか不完全で脆くて、だけども堪らなく愛おしくて美しいあの空間が大好きだ、と。
改めてそう感じた。

劇中は無意識に涼ちゃんに目がいってしまうくらい、彼があまりにも綺麗だった。
それがとても印象的。

フロリジナルがまるでエンドロールのように感じた。
それまでのシャープで見た振りや小物が見られた。
「ひとりがこわいのはみんな一緒
 どっからか香る救いの共通項を探してみるの」

この歌詞が何だかとても心に残った。
オムニバスである演劇だけども、繋がりがないわけではない。
人はどこかしらで必ず共通項がある、通ずるものがあると。

『The White Lounge』を歌う彼は一体何者なのだろう。
映画冒頭と末尾での彼は誰なのか。
語り手なのか。
それとも、記憶たちそのものなのか?
人と形容していいものなのかも解らない。
どこか神秘的で、遠くにいるような。

ケセラセラを歌う彼は、何となく「いつもの」彼のように見えた。
沢山の光を受けてキラキラと輝く彼らが、「いつもの」彼らのように見えた。
それは、そういうことなのだろうか。
このシャープは「虚構と虚無」と名付けられている。
我々が見ている彼らは虚構?
でも虚構とはいっても、完全に〝偽物〟なわけではないように私は思う。
あくまで必要な繕いというか。
エンターテインメントとして昇華させるには必要な行為であるような。
決して全てが悲しく苦しいものではないように思う。
承知の上での〝虚構〟というか。
おそらく〝虚無〟を表す『Soranji』では『ケセラセラ』とは正反対のような、生身の人間らしい表情をしていた気がする。
このシャープは何だか、我々が見ている彼らに近しい何かを感じて、少し切なくなった。

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