【Utaku雑記】凶暴なトイプードルと穏和な土佐犬,境界なき世界に恐怖している
ダイバーシティとか,個性の尊重とかよく聞きます.
当然,一つの物事に対して複数の考え方があります.
対して,世の中にはやたら2分割したがる傾向があるとか.
1.行動様式で聞いたことがある2分法
行動様式には内向型と外向型があるらしいです.
Wikipedia曰く
外向型:社交的,話し好き,活発
内向型:孤独なふるまい,外向型と比べて控えめ
とのこと.
この考え方一つとっても,完全に外向型とか内向型とか分類はできないのではないかと思ってます.
※あくまで,物事を2分しているものの例として挙げているだけで,外向,内向の考え方を否定したいわけではありません.
というのも,どんなに活発な人であっても,落ち込んだらちょっと独りになりたいときはあるでしょうし,普段一人で行動する人であっても,ちょっと活発に自転車乗ったりすることはあるでしょう.
あくまで,完全に外向型とか内向型とかではなく,8割外向2割内向のように,どちらかの比率がそれぞれに存在する話だということです.
2.勾配を持った分類
ということで,物事を2分割するのは難しく,緩い勾配でその個性同士が連続的に分布しているというイメージ.
なんとなくクーロンポテンシャルみたいな感じだと思ってます.
ここで,ワンワンの性格に代表されるような,「凶暴」,「穏和」の性格でポテンシャル場みたいなものを作図してました.
(MATLABかpythonと思ったでしょう?これエクセルなんです)
凶暴を手前,穏和をとりあえず奥と考えましょう.
先ほどの2分法の例の通り,凶暴と穏和はそれぞれある程度のレベルがあり,総合に作用しあう場を作っています.
両者のちょうど中間の谷に相当する部分が凶暴半分穏和半分といった感じ.
感情の起伏があるというイメージです.
この図において,完全に凶暴(100 %)や完全に穏和(100 %)なんてものは定義できません.凶暴側のポテンシャルにおいても,穏和側のポテンシャルがある程度作用してますし,逆も然りです.
つまり,明確な境界を定めるのが難しいような図になっています.
3.分類と認識
ここまでで,分類がポテンシャル場のようなものであり,明確な境界がないことを再度示しました.
そもそも分類の必要性はどこにあるのか.
タクソノミストという方々がいらっしゃるように,そもそも分類しないと、物や事にラベル付けができません.
DNAの構造に応じて,生物の名称を設けるからこそ,それらを別のものとして認識できています.
それがなければ,カピバラもモルモットも同じとみなされてしまいますね.
同じげっ歯類であるというところどまりなので,もし同じ生物Aと呼称されていたら,プードルとトイプードルのように,カピバラとトイカピバラという名前になっていたかもしれません.
しかしながら,個性については先ほどのポテンシャル場のように明確な分類はない.
さらに,区別するために,ラベル付けをすること自体,マイクロアグレッションとされる場合もあります.
マイクロアグレッションは,マイノリティ側の人々に向けられる,マジョリティ側の人間からの偏見です.往々にして,その偏見はマジョリティ側の都合で作られているため,その偏見を向けられるマイノリティ側の方々にとって多大な精神的悪影響を与えるのです.
表題のトイプードルと土佐犬の話で言うと,トイプードル=穏和,土佐犬=凶暴という考え方が失礼です.
トイプードルの中にも凶暴な犬はいるでしょうし,土佐犬のなかにも穏和な犬はいるでしょう.
分類に必要なほどの境界が本当にないという考え方.もしくは,境界を設けること自体がマジョリティとマイノリティの境界を生むからナンセンスという考え方.
これら二つを組み合わせると,ものごとを分類して認識することが忌むべきものなのかという考えに至ります.
まとめ
ダイバーシティとマイクロアグレッション,このふたつの考え方から,あらゆる物事の認識において,それぞれ個別に把握していく必要があります.
今はなんでも調べたら,『○○タイプのひとは○○すべき』みたいな記事が出てきますが,そんなことではなく,すべて目の前の唯一の事象であり,その個別の差異が存在しうるのでしょう.
この,境界なく,すべての連続的特性が溶け合った世界.
自分の認識を超えていそうで恐怖しています.
そもそも全て認識せんとすること自体がナンセンスなのかも…
p.s. 今日買ったスタバのケニアコーヒーおいしい
(*´ω`)
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