他人の目を気にし過ぎていないか
「他人がどう思っていようが関係ない」「自分がいいと思うこと、打ち込めることをすればいい」
という考えは、今でこそ自分のものになっていますが、私自身、中学校に入るまでは大人の目をひたすら気にして良い子でいようとするあまり、遠慮して自分の意見が無いような性格でした。
しかし年齢が徐々に上がるにつれ、「大人の先生ですら自分の意見を言っていないんじゃないか」と思うようになり、「こんな大人にはなりたくない」との思いから自分の意見を持てるようになりました。私がいじめられていた時も、話を濁すばかりで自分の意見を一切言わないような先生でしたが、反面教師としては最高だったので、当時の最低な対応も、今となってはありがたく感じます。
自分の意見を言えるようになったことで、中学・高校と6年間、級長になり、みんなのまとめ役として立ち回る機会に恵まれました。
その後大学生になってからは、いろいろなタイプの人を見る機会が一気に増えます。
そんな中、「友達がこうしているから自分もこうする」「一人にならないように友達に合わせる」といった判断基準をする人の数があまりにも多くてびっくりしたのを覚えています。
他人が自分のことをどう思っているのか気になる、という考えから自分を守るための防御手段として、他人のことを監視するような行動をとる。それが別の人に伝わり、その人もまた他人を監視してしまう。
構造はもっと複雑なのかもしれませんが、ざっとこんなもんでしょう。
私の場合は、もともと一人の時間が苦にならないことも相まって、キャンパス内のベンチで一人で弁当を食べたり、講義中に挙手したりしても平気でした。
弁当を食べている時は、檻の中の猿を見るかのように凝視されることが多く、初めのうちは不思議な気持ちを感じずにはいられませんでしたが、慣れとは怖いもので、次第に気にならなくなりました。
人付き合いをするなかで些細なことにも敏感に反応してしまうHSP(High Sensitive Person)気質の私ですが、こと他人からの視線に関しては、なぜが図太すぎるくらいの神経の持ち主です。
何かにつけて人の目を気にしないで済む、というのはある程度のラインまではプラスになりますが、一定のラインを超えてしまうと「猪突猛進」になってしまい、人によっては大きなマイナスになってしまう危険性も孕んでいます。
自分以外の意見を受け入れることを拒むようになり、次第には、無数に転がるチャンスやアイデアに気づけないまま突っ走るようになってしまうのです。
私も、せっかく自分の成長を後押ししてくれる友人や教授に恵まれていたのに、自分に囚われてしまっていたがゆえに、成長の芽を摘んできました。
その経験があったから、今こうして他人の意見を受け入れるべく、自分の解放を進めることができているわけですが、やはり、大学生時代に潰したチャンスは、社会人になってからのものより胸を痛めるものがありますね。
他人の目を気にしない人は、周りの人にとってみればただの変人に見えているのかもしれません。
先に述べた防御手段とは別に、そんな変人になりたくないという思いから、周りに合わせることで目立たないようにしている人も少なくないでしょう。
日本では、同調圧力の働きにより、言いたいことが言えない・やりたいことができないことが多いと言われています。
そんな状況から抜け出すために自分を変えようと思っても、やはり周りの力というのは大きく、変化には相当な覚悟を要するので、変えたくても思うように変えれない、というのが現実です。
しかし奨学金やサポートの充実に伴い、誰でも留学に行ける時代になってきており、日本とは全く異なる文化や思考に直接触れる機会を手にすることができるようになりました。
私も何度か留学の経験がありますが、同調圧力からの解放というのは想像以上に効果が高く、日本に帰国した時はそれまで以上に自分の意見を尊重できるようになっていました。
今は海外に渡航できる状況では無いですが、今後、自分を変えるという意味でも海外留学に挑戦してみるのも選択肢の一つかもしれません。
「他人の目を気にしない」の度が過ぎると周りに迷惑をかけてしまったり、自身のチャンスを逃してしまったりなどのマイナスになることもあります。
しかし自分の人生を決めるのは自分なので、他人の意見・行動に流されずに動き出してみることは貴重なステップアップになるはずです。
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