マミフィケーションの亜種を考察する、と、オルトクロス
マミフィケーションというカテゴリがある。
ミイラ男=マミーという言葉から想像できるように、包帯を用いて人をぐるぐる巻きにすることをマミフィケーションと呼び、さらにラップといった包帯以外のものを(ある界隈の文脈では)より使うようになっていく。
一方で、全身を何らかのアイテムで密封することをトータルエンクロージャーと呼ぶ。この言葉は、ゼンタイやラバーで多く使われる。
上の定義では、ミイラのように巻くマミフィケーションも人体を密封するという意味で同様のイメージだが、しかし、マミフィケーションをトータルエンクロージャーと位置づけるイメージがないので、違いが気になった。
手錠など、大方のボンデージアイテムと同様、ヘビーラバリストやゼンタイの場合、変化しない性具を用い、密封する。一方でマミフィケーションの場合、緊縛同様、変化する性具を用い、対象の体に沿って拘束していく。
自分が好むゴム手袋は、手にはめない限り、変化する性具に当たる。
マミフィケーションの亜種として(客観的には)見えないこともないゴム手袋を繋いで人体を包む行為に対し、最終的に、上のようにステートメントを作ったが、結論ではない。
以下は、メモに当たる。
6/25 〜 6/5
マミフィケーションについては、まだ半分くらいしか思考を掘り下げられていない感じで、もうちょっと考えていくと思う。マミー展に参加していなかったらこうやって考えることもなかったように思う。
テキストでまとめたい気持ちもあるが、とりあえず、SNSや個人メモで記したことを、ざっくりと以下に引用したい。
今回の展示写真の実験の始まり
のちに〈人がいる→巻く〉とシンプルに修正されたが、元々マミーはラッピングという認識だったので、展示参加を考えたとき、ストレッチフィルムの代わりに擬態的にゴム手袋で巻いてみようとした(つまり、自分はマミフィケーションを初めて試みるのだと勘違いしていた)。
そのように試みた最初の撮影で、逆に終わりなき考察が始まり、Xで予告していたゴム手オブジェクトの作品を作るところまでは結局辿りつけなかった。作る予定だったオブジェクトの仮タイトルは、
そもそもゴム手マミフィケーションなんてほぼ誰も知らないので(それはアートではない)、展示ではシンプルな写真をチョイスしている。
設営時、2Fから下りてきたマミーも好むとても親しいお客さんと楽しく話している中で、自分は〈俺はアートのことは話してないよ。プレイのことしか喋ってない〉と口にした。
しかし、アートとは、生きることそのものなので、プレイについて喋るということは、アートについて話すことなのかもしれない。
さらにその前のテキスト:
マミフィケーションのこと
マミフィケーションに、いつ出会ったのかは思い出せない。
多様なBDSМやフェチが、同好のクラスタを越えてクロスオーバーした10年代前半、マミフィケーションは自分の日常近辺で当たり前に見かけられた。それは、ラッピング(ストレッチフィルムによる)と同義だった。体験的に巻かれてみたことも幾らかある。
マミフィケーションを◯◯ペディアなどで見てみると、文字通り包帯の場合もあれば(イラストやアート系で検索すると包帯ばかりが出てくる)、顔だけや腕だけといった部分的なスタイルへの指摘もあり、かつて思っていたよりも解釈はずっと広いことに気づいた。
むしろ、マミフィケーションを妄想する人たちにおいて、ストレッチフィルムは夜の街特有の小さな文化で、ファンタジーを持つ人々の中でのマジョリティでは、メインは包帯なのかもしれないと思うようになった。(ここで立場は天動説と地動説で分岐する。詳細は省く。)
ところで、複数のバラのゴム手袋は、人を埋めるためにある。
繋いでロープ状になったゴム手袋、それがカオスに繋がりあったゴム手袋は、人を拘束するためにある。
ロープ状にしたからといって、それを用いて自分は、人を巻くことはなかった。巻くルートが現れたのは、結び方を面状にした特殊なゴム手袋を見つけたからだ。
面状のゴム手袋は、筒状にして、人を中に入れるためにある(トータルエンクロージャー)。追って、筒状にする前の段階、面状で、人を巻く手数が増えた。
つまり、ゴム手袋は、手錠や縄に近い拘束具であると同時に、埋める/埋まりあうためのもの(ドライメッシー)だった。この段階で、視覚遮断、呼吸制御、用途多様な第三の手の他、幾らかの為の道具ともなったが、やがてトータルエンクロージャーの手数が増えた。こう振り返ってみると、ゴム手袋で巻くこと(隙間のある:アンフラマンスなマミフィケーション)は、自分個人の発見の過程では、だいぶ後になってからだと分かる。
バラ、ロープ/カオス、筒、面、と、4つのゴム手袋のそれぞれに対応した4つのスタイルと、派生した幾らかのスタイル。それは、ゴム手袋の本質のための〈準備段階〉と認識している。バラ、ロープ/カオス、筒、面、そういった演者たちが、総合的に何を創造するのか。自分の表現は、そのような劇場型なのかもしれない、と今回思った。
ゴム手袋による様々なスタイルによって結びつけられた人が、ゴム手袋による多様な空間と、繋がること、それによる、身体拡張、これを、ゴム手袋の本質であると考える(ラテックス:第二の皮膚、その拡張)。
上の文章は少し正確ではない。
最初期のオブジェクトは、ゴム手袋で包む際、その中の箱を圧倒的に変形させることが主眼だった。
最初期の考察のメモ
6/5
マミーについて凄く考えたけど、トータルエンクロージャーが、物(既製品)のなかに私が入る、という順序なのに対し、マミフィケーションは、私が(ラップや包帯などの)物に巻かれていく、という順序なので、
物→私
私→物
正逆だなと。
* 上での〈私〉は、受け手側のことを指す
オルトクロス覚書
深刻な中毒状態をアディクションという。
それを分散化し、こなしている状態を、クロスアディクションという。
そこからの連想で、クロスアディクション状態が、アディクションとしてこなしているどころか、楽しいレベルにまで達している状態を、〈オルトクロス〉というふうに、2024年3月に、造語を作った。
なぜ、このような造語を作ったのか。
それは、マイノリティ問題に関係している。
マイノリティ当事者の気持ちというのは、理解されることが難しい。だから理解されるように発信したり、理解してこないどころか差別してくる人たちに対し逆差別していったりという段階が生じる。
マイノリティは、なぜ理解されづらいのか、根本を確認したくなり、次のようにイメージした。
オルトクロスのモードでは、何でもネタにできる無敵感がある。すると、アディクションの当事者に対し、同化型差別が生じる。
結論から言うと、
アディクション当事者 → クロスアディクション ← オルトクロス
と矢印の向きが正逆になっている。
かくいう自分は、マイノリティ意識(少数派というだけの意味ではなく、孤立幻想が死と向き合うなど実存的命題に直結すること)を十代の頃に経験しているにもかかわらず、深刻な中毒者=アディクション当事者の心境が理解できないでいた。なぜだろうと考えた。自分は、オルトクロスなのだ、と結論づけた。ありとあらゆるものを広範囲に楽しめればポストモダン=スキゾ的に分散化し、固執した対象から逃れられない偏執狂的なパラノから脱せるのだから、単一の中毒物にハマらずにすむ(クロスアディクション状態)。という性質をもとから持っているので、単一の中毒物にハマって悩むアディクション当事者の気持ちが分からない、という分析だ。
背景に、虚数問題があるが、そこは今は触れない。また、アディクションそのものをを反転させるハック的スタイルについても触れない。
自分はときに深刻なラブジャンキー(恋愛中毒)でもあったので、アディクション状態が分からないわけではない。だが、アディクションの本質は、対象がハードな〈物〉であることと関係しているように思う。〈人〉ではなく〈物〉であるから、耐性はあるとしても、入手できれば、際限なく一時的だが圧倒的な効果を与えてくれる。〈人〉では、そのようにシンプルには進まない。
何にしても自分は(資本主義の要請通り)オルトクロスであったから、アディクションの沼にハマり込まなかったし、おそらくそれは、オルトクロスというマジョリティ的感性なのだろう。
つまり、マジョリティであるオルトクロス者たちは、アディクション当事者のことが分からないゆえに、同化型差別をする。以上、だろう。
多かれ少なかれ、誰しもゆるい中毒者だが、ハードな中毒者と、ゆるい中毒者は、全然別の領域で、後者は、そんなハードなものを多用することなく、マインドフルネス系(モンクモードやゴーストモードなど)を起用し、モーニングルーティンのティーだけで済んだりする。アニメを見まくればそれで済んだりする。日本酒やワインを嗜んで豊かさへスライドできたりする。ハードな中毒者は、今は触れないと述べたが、背景の虚数問題なので、安定を手に入れづらいだろう。
自分が思うのは、ハードなオルトクロスがあるということだ。それは、クロスアディクションに限りなく近いが、矢印(ベクトル)の向きが逆でなければならない。つまり、反転のスキルがいる。
ここは「マミフィケーションの亜種を考察する」という題のエッセイだが、マミフィケーションの項目だけを見ても、ラップ、包帯、ゴム帯とあり、自分はゴム手袋で様々に試みてきた。ラバー、メッシー、ゼンタイ、BDSM、エトセトラ。自分は、背景の虚数問題ゆえに、それでも、(アル中体験記である、中島らも「今夜、すべてのバーで」を読んだ影響が強い)アディクション当事者に陥ることを回避するため、ジル・ドゥルーズ的な領域横断を学生の頃に知り、とはいえ白々しいポストモダンの表層性を回避し、多趣味とかいうレベルでなく、ゴムフェチが嵩じ大量のゴム手袋を用い、夜の街の漂流モノとして、オルトクロスというボディありきの形而上へ飛んだのだろう(ここには、身体改造文脈におけるカッティングというスタイルから多くの知見を得ている)。
アンダーグラウンドカルチャーか、アウトローカルチャーか、の線引きは、オルトクロスか、アディクションで管理するか、の度合いだと思っている。アウトローはその性質上、中毒装置を用い集金モデルを構築し、中毒者がどうなろうが構わない、ある範囲内では人情などの熱量もあるかもしれないがいざとなったときには結局のところは血も涙もない現場だ。
アンダーグラウンドに必要な概念は、セーフティネットへの自覚であり、それを失えば法律上反社でなくてもアウトロー化する。自覚を持ち、アウトロー化せず、アンダーグラウンドカルチャーを維持する限りは、オルトクロスをどんどん生成し、とにかく、皆が皆で、または皆と楽しむ。
ベルリンやバンコクなどのマイノリティカルチャーに出向いたとき、アンダーグラウンドというものは万国共通だと実感した。アンダーグラウンドとは、同世代的な感覚ではなく、近世や中世程度までは遡れる、人類上の特質だと考えている。
_underline, 2025.1