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いつもどこか遠くにいる、と永遠
いつもどこか遠くにいる
そのようなアートでありたいと思っている。そのための表現形式は様々にある。アンフラマンスにも繋がるが、自発的にはグッズ展開をしないことにしている。滅ぶインスタレーションであるということは、アートが〈物販化しない〉という意味を持つ。資本主義社会へのアンチテーゼがあるわけではない。元々販売を射程に入れて作ったが、作ってみて、売ることができるということはどこまでも物販だ、そのような失望感から逃れられなく、やがては滅ぶことに魅せられたにすぎない。
(2024.10.18, Facebook)
そして、逆説的に、幾らかのコンセプチュアルアートというのは写真や記事によって永遠性と結びつけられているが、そういった例外を除いて、アートプロダクト(作品)というのは、作者よりも寿命が短いなんて全くのナンセンスだと考えている。それは、魂の不滅をまるで支えられない。
(2015.8.20, Facebook)
この記事は、2014年から24年の10年間、Facebookに投稿してきた文章を、アンフラマンス、フェティッシュ、エクリチュール、永遠、といったキーワードで検索し、まとめたものです。それらのキーワードが、自分のなかでどう関連しあっているのか、各時期の生の声から確認しました。
アンフラマンスについて
フェチやフェティシズムという言葉を使うと別の文脈の考えになるが、フェティッシュという言葉から見る場合、それはアンフラマンスと関係していると考察している。3次元という具体的な世界の中で、静かで、あるかないかが分からないくらいのものが、最も〈永遠〉に近い。
(2020.10.2, Facebook)
マルセル・デュシャンがアンフラマンス(inframince)という言葉を創造したとき、2次元から3次元への意味合いもあった。
人が立ったばかりの座席のぬくもりは極薄(アンフラマンス)である。
フェティッシュは、フェティシズムからフェチへ至る文脈とは別に、個人のエロスに対するセンシティブな情感が交わっているように感じる。
(2020.12.2, Facebook)
![](https://assets.st-note.com/img/1737755371-yUcHPKIikGN03XDlCY7edSbm.jpg?width=1200)
この画像は、1分の無音映像。
YouTubeに上げている。
(2020.10.2, Facebook)
過去に様々な展示を見てきたが、ベスト3は、フィラデルフィアのムター博物館、バンコクのシリラート死体博物館、そして、フィラデルフィア美術館の二部屋ほどを占めるマルセル・デュシャンの展示コーナー。こうやって並べてみて気づくのは、デュシャンの作品は、博物品に近い。
![](https://assets.st-note.com/img/1735611051-2csQP1dtYbfK4r9SEATuORJG.jpg?width=1200)
昔見た展示で、強く印象に残っているものの、タイトルどころか作家名も忘れてしまった個展がある。阪神間の、あれはギャラリーなのか、古く小さい、陽が差す静かな家の中の端々に、小品が点々と配置されていた。木造りの階段を降りながら、あ、ここにもある、と作品を鑑賞した。客は誰もいなかった。
時折振り返って、あの展示はなぜ実現できているんだろうと思った。収益もなさそうだし、多くお客さんが来ているようにも感じられなかったが、だから素敵だった。
この素敵な体験は重視したいと思った。
社会と個人における、アンフラマンスといえる。
公園の広場などで放置されてしまったかのようにずっとあるパブリック・アートは昔から関心があるが、もっと静かな屋内の、ふいに誰かが訪れるような場所での「個展」に関心がある。
(2023.11.11, Facebook)
フェティッシュについて
![](https://assets.st-note.com/img/1735609078-DAv5wMGsRYnF2pSq74xVmHOE.jpg?width=1200)
琵琶湖の〈突き放された〉感は、隣接世界の冷たさだった。
〈突き放した〉冷たい官能性に、都市型フェティッシュは宿る。
冷たさに〈タナトスの官能〉を見出すそれは、都市型フェティッシュの、アンフラマンスだ。
(2021.12.31, Facebook)
先日、大学生の知人が、とある展覧会を見に行ったと伝えてきた。どうでした? と尋ねられたので、良かった、と口にした。観に行く前から直感的に良いと思ったので図録も買うつもりで出向いた。行ってみて、すごく感動したので、入り口まで逆走し、もう一度駆け足で観ていったら、途中で飽きた。つまり、本でいうところの、再読に耐えなかった。なぜだろうとすごく考えた。これについて、少し議論した。
かつて、たった二周見て、飽きた、などという感覚に陥ることは、たとえそんなに良くない展示でも、そうそう起こったりはしない。むしろ、驚きでしかない。これは、すごくショックな体験で、二度と忘れないと思う。
一人で思考し続けて、ある程度言語化したのだけど、もっと良い表現にあとで出会った。美術運営方面の方にこの話を振ってみた。前回の展示はすごく良かったけど今回の展示には作家以外の意志を感じる、と答えが返ってきた。そういうことだと思った。前回の展示では闘病が関係していたらしく、観ていないが前回の展示が圧倒的だったのは、そのことと関係しているのではないかと思った。つまり、前回の展示は特異点であり、今回の展示はそこで生まれた期待に応えるべく、これまでになくキュレーターと相談しあって全体を構築した展示だったのではないか。魂の声にしか興味がない自分には、作家の声があまり聞こえなかったことに敏感になった。
一方、それでも、フェティッシュを前進させる作家だから、と口にしたら、フェティッシュって何ですか、と聞かれ、答えられなかった。
フェティシズムって専門用語があるんだけど、と言った。そこからはしょって、脚フェチとかあるやん、とフェチの話をしたが、そういうのとフェティッシュは違うんだけど、と加えた。聞き手の学生はスマホでフェティシズムを検索し、すごく感動し、話は、ありがたいことに宙づりになった。
フェチは基本的に18世紀フェティシズムの20世紀フロイト的解釈なので、そこではなく19世紀マルクス的解釈から説明した上で、フェミニズムの観点を付け加えなければならない。18世紀フェティシズムよりも前に、女性が占いなどの社会通念上役に立たないとされるものにハマっている状況に対し、男性観点で批判的にフェティッシュの語源で名指していた過程が関係してくる。昔、自分は、快適・快感・快楽・官能の4K分類をしていたが、この官能がフェティッシュには関係してくる。つまり、フェティッシュは非男根的世界観で、この辺りのことを一切専門用語が分からない人に伝えられるようにしておかないとと思った(ここで、男性的/女性的という分類が出てくるが、これも、ジェンダーに神経質な現代では使いにくい)。
さらに、理論武装において、形而上やアンフラマンスが重要になってくる。
こういうことを考え出した発端は、書店、大型書店でも、エロやフェチやフェティシズムの本はサブカルチャーコーナーなども含めて見かけられるが、自分が捉えているフェティッシュの本は1冊もないことに10年代前半に気がついて、途方にくれたからだ。しいていえば、ファションの棚に近しいものがあるが、近しいだけだ(神戸のファッション美術館にある図書館で、ファッションブランドが出版した洋書を片っ端から見ていったが、フェティッシュとしての1冊、のようなものは実際ほぼなかった)。
フェティッシュは、この現実の世界では、修飾語としてしか存在していない、と結論づけることができる。それ自体、アンフラマンスだともいえる。そしてアンフラマンスをデュシャンは形容詞とみなしていた。
(2024.12.14, Facebook)
エクリチュールについて
色の連想で、エメラルドに輝くアティテュード(物事に対する意味での態度)という【点】から、エメラルドに輝くエクリチュールという【線】が伸びるイメージについて、わらび餅をつつきながらカフェしていた。
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(2021.11.13, Facebook)
![](https://assets.st-note.com/img/1737754165-d6HIykCtMQEeBr9K3o2RSOF1.jpg?width=1200)
エクリチュール(書き言葉)その学術的な意味=フェティシズムは、最初にこの言葉を使ったド・ブロスの文脈ではフェティッシュと同一だが、フロイト以降、性への執着が特定の物に転化する意味で FETISISM は使用され、それはポップにフェチとなった。自分は単純にゴムフェチかもしれないが、作家としてはフェティッシュを考察対象としてきたので、パロール(話し言葉)としての FETISH を
1. 物への執着
に
2. 性が帯びる
感じと捉えて考えてみたい。これは「フェティシズムは呪物や物神ではない」としたド・ブロスの文脈とも違う。
そのとき、趣味嗜好関係なく、フォークを使えば誰しもまぁまぁ食事ができるように、それぞれの人が自らを主体とする。フェティッシュをまとえば、フェチがなくても、フェティッシュを楽しめる。そして、フェティッシュの究極は球である。永遠性である。
(2021.5.8, Facebook)
相当前の、ツイッター日本語版が流行り始めたばかりのとき、隅田川中央大橋近くだった頃のSMサロンで、オーナーとともに運営している女性が、もどかしさを呟いていたのを思いだす。
誰それは今どうしてるだろう、と勝手に妄想するのが楽しいのに「どこそこなう」とか知りたくない、面白くない、と。
もちろん「どこそこなう」に意義がある場合もある。だが、そういうもどかしさについての知、エピステーメーの活動であること。ずっと意識していたアンフラマンスに、去年、エクリチュールを付け加えることによって、1つのお膳立て(それをエピステーメーという)だけは整ったように思う。以前、展示されていることだけが伝えられるクローズド・エキシビジョンというシリーズを(展示回数制限を定めて)やっていて、雑誌にも〈開催していた〉という情報だけを数ページで紹介して頂いたが、そういう、99.99...%をしめるメディア外(コンテンツ外)の文脈。
実現したいものは積極的に実現していくべきだと思うが、それ以外の、すべての領域。
(2022.1.12, Facebook)
延々、デリダやフーコーに対する、別世界線による(かつての流行語)エクリチュール、バルトに対するアンフラマンス観点での対話、他に、フランシス・ベーコン、メイプルソープの話題。とある展示会場で、フーコーはシンプルだと思うんだよね、と話す。総監視社会パノプティコンは批判言説だが本能ではそのような拘束世界が比喩として快楽って感じてそうなBDSMライクなミシェル・フーコーが好きだし、ロラン・バルトのマイノリティ抵抗装置がフーコーのアルケオロジーに還元されるならそれでバルトの議論は終わるが、バルトには、永遠へと、どこまでも伸びる感じの領域がある。
ジャック・デリダのエクリチュールを学ぼうと本を読んでいて気づいたが、マルクス・ガブリエルが使う〈対象領域〉と同義に近い。
(2021.12.2, Facebook)
バルト自身の思想ではなく、この思想のエクリチュールには、かつて流行ったバルト受容とは違う世界線可能性が、少しだけあるように考えている。
そのような魂を起点に引いたラインが、未来へと至る延長線上だけを視てモノを作っていて、目を閉じれば、個人も社会もすべて消える。
そのライン上での、チャレンジだけを考えて生きている。
(2021.11.21, Facebook)
永遠について
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能というのはだいたい二部構成で、今回、とりわけ第一部での能の舞が、能面をつけた者がゆっくりと長時間、太鼓や小鼓、笛などの曲とともに舞をし、見に行く直前まで途中で眠くなりそうだな、言葉も聞き取れないだろうし、と思っていたが、延々と目の前で舞が続いていく最中、俺は今何をしているんだろう、かつて味わったことのない優雅な時の使い方をしているが、自分はそんな立場じゃないだろう、と反省の念すら頭によぎるほど、刺激を受けた。2019年、神戸の長田神社での薪能の話だ。
良いものを見させて頂きました、とか、非現実の世界で一時の開放感を得ました、とかその類の次元とは違う、この時の優雅な感覚は、能が、貴族文化の残存だからだと考える。
もともと中国から伝来してきたものが、日本庶民特有の祭りのような形式の中で名を変えながら根づいていった中で、猿楽の才能ある演者である観阿弥の子、世阿弥を、室町幕府初期の将軍足利義満が気に入り、世阿弥は猿楽から笑いの要素を抜き取り、庶民文化から切り離した貴族文化のものとして能を完成させたのが600年前。その時代の脚本が、言葉もそのまま、600年間ずっとベースとして今も続いている。オペラの歴史の倍の長さ。他に類を見ない。
だが、この感覚は知っている。「旧皇族が語る天皇の日本史」 (竹田恒泰)で、分裂などの危機もありながら、2000年以上続く天皇の歴史をざっと見渡した時の流れに似ている。
一時期ネットで話題になっていた〈世界196カ国。その中で、紀元前660年に神武天皇が国をつくり、王朝が一度も滅びることなく続いている世界最古の国が「日本」なのです〉のような話に似ている。
だいたい日本人アイデンティティを確認するとき、これが日本独自のものだとかは案外なくて、結局は海の向こうから幾多の文化がやってきても次から次へと日本流に調理(リミックス)してしまう「吸収力」という概念に至るが、能を見たとき、同じものが不変として長時間続く、そういう感性も日本人独自のものではないかと考えた。(自分は1/16で異国の血が混じっているので、この話が直接は自分のアイデンティティの核にはならないが。)
にしても、600年前の脚本が、世阿弥の思想が、おおよそそのままで今もなされているというのは、寿命のある人の視点から見たとき、永久に近しい。永久が、どこまでも続いたとき、時の概念が壊れ、永遠に近しくなる。自分は、そういうところに接続したい。
能の魅力は、舞台は簡素、音は機材も通さず、といった、最低限のミニマルなところにもあり、歌舞伎のような庶民文化と違い、内容面で庶民の側へ媚びること自体存続においてそもそも危険ではないかと感じるのだが、選択肢自体は多様であって悪いことなど何もない。
2019年1月に亡くなった梅原猛が、2013年にスーパー能として、現代語を用い、照明に凝るなど、能のエンターテイメント化に挑戦していて、それだったら、自分も能に絡んでみたい。幽玄の美の世界に、自分の表現は凄く似合うと思う。そういう舞台を、自分でも見たい。
(2019.8.20, Facebook)
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縄文時代って長すぎない?と、ずっと思っていて、1万年ほどある。
かつての縄文ブームにまったく乗らなかったので、この1万年についての知識がない。だが、ピークを求める縦の世界に対し、延々と続く横の世界、フェティッシュ、永遠のことを考えるとき、太古の悠久を連想でつなげてみると面白い。
太古のことは経験していないため妄想でしかないが、滋賀県、琵琶湖にある、ゆっくりとした人々の時間感覚を味わっていると、太古の時間感覚が現代なりに保存されて残されているような錯覚に浸れる。それは、四季があり様々な点で穏やかな本州に住むゆえの悠久で、悠久のような概念はむしろ中国文化のような気もするが、中国は不老不死をやたらと求める世界なので、日本に比べて相当過酷なのだろうと思う。
悠久の民は、不老不死のような理想に気づくまでもない。
田舎への憧れみたいなんではなく、都市的視点でフェティッシュだなぁと感じている。フェティッシュの定義は、円環であり、次に物であり、そこに、人が勝手に官能を感じる(≠フェティシズム)。湖は、海と比較するなら、生命の源ではない。海がエロスなら、湖はタナトスで、人間の視点なら海のように広い琵琶湖は、円環を宿した物の気配を揃えている。
以前、物性に気づいたが、今年、鳥人間コンテストの現場で、円環性に気づいた。その悠久は、太古にまで繋がっている。
(2022.9.1, Facebook)
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聞いた話。
子供が欲しいが我慢し続けた夫と絶対欲しくない妻がいて、二人とも30代で、本来35を越えるとピルを飲んじゃいけないからか理由は定かじゃないが飲むのをやめたら身籠ってしまい、妻は本当に欲しくないと確信を得たがおろすのは嫌ということで時間が過ぎ、結局流れたらしいがこれを機に二人は思いあっていたが話しあって離婚したらしい。
恋愛は永遠とかそういうことへの話じゃなく、こういう話を聞くと、永遠なんてないと思うよなー、と苦笑した。
最近、永遠なんてないという当たり前のことを実感することが多い。正論というのは本当に馬鹿馬鹿しいから永遠はあると言い続けたい。なぜあるのかという根底さえ壊して突きつけたい。
(2014.5.9, Facebook)
永遠というものは存在しない。ならば、それは永遠である。
_underline, 2024.12 編集