シュルレアリスム -強現実-
シュルレアリスムとは、強度のリアルである、という訳され方を見たときに初めて興味が湧いた。10代の頃からサルバドール・ダリの時計が曲がった絵とか大好きだったが、所詮妄想じゃん、と思ってしまっていた。自動筆記からなにを学べるんだよ、とも。小説も、そういう考え方でいけば、現実逃避のための娯楽でしかあり得ない。逃避というのが嫌いで、仮にそれをするならば、なにかしらの現実に対しての態度でなければならないと思っていた。どうせ逃避であるなら、つまり〈人生が死ぬまでの暇つぶし〉でありその内容をいかに豊かにするかくらいしかすることがないのなら、言うほどこの世界に生きる価値なんてないから自殺した方が効率的だと思わざるを得ないのだ、独身者として子孫も残す気のない僕は。リアルといっても現実はあらかじめリアルなわけで、逃避が逃避でしかないのなら、まず生きていく必然性を見出さなければ働く気も起きなくて、自殺とかほんとどうでもいいやろって話なので、フツーにホームレスか、良くてヒモになってしまうが、それって逃避だからな。こういう、堂々巡りを机上の空論に変えてしまう強度のリアルがある。という言葉を世界大戦後に堂々と掲げてシュルレアリストが立ち上がったのなら、仮にそれが貴族主義の血統を守るために必要とされた仮構にすぎないのだとしても、関心を示す必然性が見出せるってもんだ。
澁澤龍彦は悪徳を掲げるだけ掲げてサド裁判をしたくらいであんまり悪徳なことを身をもってしていたように思えないと見てしまうのは、ペンは剣よりも…やはり強くないのだろうか…という時代に生きているからかもしれない。僕はただの(ゴム製宇宙服をまとって自殺真空にて漂っているにすぎない)旅行者だから、宗教的没頭は不可能で、澁澤龍彦周域で永住するようなことはないのだろうけど、強度のリアルの要請によって日本に神秘主義化を計った彼らの意志を、向きあえるくらいには理解できるようになりたい。
重要なのは、すべて何かしらの要請によって表れた構造に監禁された状態であるということだ。しかし、ネガティヴな情報にロマンチシズムがあるので、監禁とか監視とか、情報という鎖によるものならアリかもしれないし、仮に脱獄するならば、もう少し状況を見て把握してからじゃないと簡単に失敗するだろう(脱獄とかたぶん違う)。
この段落を除いて、上の文も含め、ここの文章はおもに2006年に記したものだ。シュルレアリスム以前、未来派の多種多様の宣言文の引用や、DADAについても、以下のリンク先にすべてある。
アンドレ・ブルトン(創始者)
André Breton は、フランス北西部の半島、ブルターニュ地方のタンシュブレーに生まれる。第一次世界大戦頃、当時はあまり知られていなかったフロイトの心理学に触れ、終戦後、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーらとDADAに参加するが、その中心人物トリスタン・ツァラと対立。1924年の「シュルレアリスム宣言」によって、シュルレアリスムを創始する。
1914.3 文芸誌『ラ・ファランジュ』に最初の詩「笑う女」Rieuseを発表(18歳;象徴主義的)
1915.2 第一次世界大戦に動員(ジャック・ヴァシェと出会う)
1916.7 神経=精神病理学センター配属、フロイト理論との出会い
1918.11. 9 詩人アポリネール病死
1919. 1. 6 友人ヴァシェの自死
1919. 1.22 ツァラに最初の手紙を送る(「ダダ宣言一九一八」に感銘を受けて)
1919. 5- 6 自動記述の実験(スーポーと)
1920. 1.17 ツァラがパリに到着
1922. 1. 3 「方針決定と現代精神擁護のための国際会議(パリ会議)」の開催を失敗する/ダダを手放せ
1927 フランス共産党に入党
1933 『ミノトール』創刊(ナチス台頭に反対して)
1935 『コントル・アタック』結成。(翌年5月解散;仲の悪かったバタイユと)
1938 メキシコ旅行(トロツキー、リベラ、フリーダ・カーロらと会見)
1939 『鍵』創刊(独立革命芸術国際同盟-FIAR-の機関誌)
1941 ニューヨークへ(ペギー・グッゲンハイムの支援による)
1946までシュルレアリスム雑誌「VVV」に関わる
1947 アール・ブリュット協会に参加
1966 パリの病院にて死去
強現実と超現実
シュルレアリスムという概念は、現実に内在する強度(シュル)の現実(レアレテ)である。今、個人個人が内に固く築いたリアリズムこそシュルレアリスムであり、それを介して現実世界に向かい撃つことを含んでいるのだと理解する。それは、これまで好んできた作家たちから何を学ぼうとしてきたかというとても身近なことだ。多くの資料を含んでいるP.ワルドベルグ「シュルレアリスム」の著者による解説部分100Pを読むと、アンドレ・ブルトンとしてのシュルレアリスムと、大衆的に用いられるシュール(異化効果)なものとしてのシュルレアリスムとに分けられているが、シュールな後者は確かに〈超現実〉かもしれないが、前者は〈強現実〉と訳した方が僕にはしっくりくる。後者的な〈シュルレアリスム〉マニア、異化作用をもたらす(作家を含めた)存在を探しだすという、それを見つけた際の異化効果が目的のように思われる暇つぶしのごとき行動様式を僕はポスト・シュルレアリスムとして肯定する(それは自らの世界観を見直す編集作業となる。それは外の侵入をひたすら拒む)。だが、ここでは前者を扱っていく。強度が内と外の間の大きな大気の壁を突き破る。〈独身者の世界観〉として、誰一人信者であってはならないと考えているからだ。しかし、その前に、19世紀詩からシュルレアリスムに渡る架け橋としてギョーム・アポリネールの批評活動を見るべきかもしれない。さらにドイツ/フランス-ロマン派のシュルナチュラリスム(超自然主義)について〈彼らはただ、シュルレアリストたちよりも伝統や過去を尊重していたし、論理的手順の価値をすべて否定していたわけではなかった〉と述べられていくときの、シュルナチュラリスムの方ではなくシュルレアリスムの態度の方を詳細に見て、理解していきたいと思わされた。ヴィクトル・ユゴーがシュルナチュラリスムについて、急降下する縦思考以外の分野へ目を向けるような意味あいで語りつつそれを空虚と述べる態度は面白い。19世紀の詩人たちを魅了したというラインからはエリファス・レヴィにもきちんとした関心を持てそうだ。P.ワルドベルグ「シュルレアリスム」の評論部分はとてもいい。ドイツをひとまず置くとして、19世紀のフランス詩(ロマン主義から高踏派、象徴派を経てボードレールからロートレアモン、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメへ)という流れには、深くイマージュとヴィジョンという概念が息吹いているらしい。イマージュを、イメージではなくイマジネーションとして捉えている。この2つの地下水脈なくして、きっとブルトンによるシュルレアリスムを理解することはできない。それは、瓦解した世界(メイン/サブ/カウンター/オルタカルチャーともどもすべての指標が失われた世界)にあってさえ〈豊かに〉生きる技術だと考えている。もちろん、上記カルチャーの失われた世界の到来を望んでいない。だが、そのようなヴィジョンを内在せずして今の現実の世界と向きあう気がしないだけだ。
[2009.3] 追記――ここでいうヴィジョンとは、一般社会で「ヴィジョンを持て」と使われる、明確にした目的のこととは違う。人間が1つのヴィジョンを視ている点は同じだが、それの扱い方が、空港で本を買って飛行機機内で読む読書と、図書館で書庫から大量の本を出してつぶさに読む読書との違いほどに大きく違う。例えば、ヴィジョンとして、会話を通した関係よりも前に、書物を通した関係の方を先に想像している(それは現実から遠ざかるための書物ではなくて、シリアスな私信としての書物だ)。
自動記述 オートマティズム/Automatism
引用——眠りながらの口述や、常軌を逸した高速で文章を書く実験などだった。半ば眠って意識の朦朧とした状態や、内容は二の次で時間内に原稿用紙を単語で埋めるという過酷な状態の中で、美意識や倫理といったような意識が邪魔をしない意外な文章が出来上がった。無意識や意識下の世界を反映して出来上がった文や詩から、自分達の過ごす現実の裏側や内側にあると定義されたより過剰な現実・「超現実」が表現でき、自分達の現実も見直すことができるというものだった*
1885 マイヤース「自動記述」(オートマティック・ライティング;米)
1889 ピエール・ジャネ「心理的自動運動」(自動記述という語を使用;仏)
1890年代 ジクムント・フロイトが〈自由連想法〉を確立;心に浮かぶすべての思考を無差別に言い表す(無意識の表出が治癒効果を持つ)
1919 ブルトンとスーポーが〈自動記述;エクリチュール・オートマティック〉を文学に導入
LINK
シュルレアリスムと女たち
アウトサイダーアートの世界
クリティック;短いレビューあり
ウィキペディア(Wikipedia)
googleイメージ検索 検索結果
アンドレ・ブルトンの書籍
1928 「ナジャ」NADJA 岩波文庫/白水Uブックス/白水社/現代思潮新社;驚異の日々のドキュメント;1963に全面改訂 *
1932 「通底器」Les vases communications 現代思潮社
1934 「黎明」
1937 「狂気の愛」L'Amour fou〈Breton, Andr´e〉 思潮社
1940 「黒いユーモア選集」Anthologie de l'humour noir ブルトン編集;白水社 上/下
【上巻】避雷針◆ジョナサン・スウィフト◆D=A=F・ド・サド◆ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク◆シャルル・フーリエ◆トマス・ド・クインシー◆ピエール=フランソワ・ラスネール◆クリスチャン=ディートリッヒ・グラッベ◆ペトリュス・ボレル◆エドガー・ポー◆グザヴィエ・フォルヌレ◆シャルル・ボードレール◆ルイス・キャロル◆ヴィリエ・ド・リラダン◆シャルル・クロス◆フリードリッヒ・ニーチェ◆ロートレアモン伯爵/イジドール・デュカス◆ジョリス=カルル・ユイスマンス◆トリスタン・コルビエール◆ジェルマン・ヌーヴォー◆アルチュール・ランボー◆アルフォンス・アレー【下巻】ジャン=ピエール・ブリッセ◆オー・ヘンリー◆アンドレ・ジッド◆ジョン・ミリントン・シング◆アルフレッド・ジャリ◆レイモン・ルセール◆フランシス・ピカビア◆ギョーム・アポリネール◆パブロ・ピカソ◆アルチュール・クラヴァン◆フランツ・カフカ◆ジャコブ・ヴァン・ホッディス◆マルセル・デュシャン◆ハンス・アルプ◆アルベルト・サビニオ◆ジャック・ヴァシェ◆バンジャマン・ペレ◆ジャック・リゴー◆ジャック・プレヴェール◆サルヴァドール・ダリ◆ジャン・フェリー◆レオノーラ・カリントン◆ジゼール・プラシノス◆ジャン=ピエール・デュプレー◆あとがき
国文社の〈セリ・シュルレアリスム〉
第一巻『黒いユーモア選集』/第二巻『夢の軌跡』/第三巻『驚異の鏡』(ピエール・マビーユ著)/第四巻『シュルレアリスムの発展』(ハーバート・リード編)/第五巻『シュルレアリスムの変貌』
1944 「秘法十七(秘法十七番)」Arcane 17 人文書院(晶文社);エッセイ
1952 「対話集」
1957 「魔術的芸術」L'art magique ブルトン、他;河出書房新社 *
「夢の軌跡」Trajectoire du reve 国文社
「処女懐胎(童貞女受胎)」Serie fantastique 共著;思潮社(西沢書店);ブルトン、エリュアールの自動記述の実験記録
「性に関する探究」Recherches sur la sexualite ブルトン編集(討議録);白水社;アラン・ルドルフ監督「セックス調査団」
「ピエール・モリニエの世界」 ブルトン、他;サバト館
「ブルトン詩集」 思潮社
「至高の愛―アンドレ・ブルトン美文集」 エディション・イレーヌ
「アンドレ・ブルトンへの手紙」 アントナン・アルトー著;サバト館
「アンドレ・ブルトン (作家の諸相)」 J・グラック著;人文書院
「アンドレ・ブルトン伝」 アンリ・ベアール著;思潮社
「アンドレ・ブルトン集成」1~12 人文書院 復刊ドットコム
「シュルレアリスムの資料」 思潮社;シュルレアリスム読本4
「シュルレアリスム」 P.ワルドベルグ;河出文庫
経済効率について(2006年頃の雑文)
どうすれば澁澤龍彦周域に入り込めるのだろうというのが長らくの関心ごとで、ミシェル・フーコーが、性の神秘主義化という傾向はブルジョワジーの血統強固のためにもたらされたのだ、というようなことを言っているらしく、こういう言い回しからならば、神秘主義をほとんど信用していなくたって、00年代なりに風景を再現できるのだろうかと期待し始めている。
金塚貞文は、経済効率の要請によってメディアなるものが性欲を効率よく一人で(個人主義的に)処理すること(つまりオナニー、マスターベーション)をもたらしたのだと、フーコーを引きながら述べている(80年代末に)。擬人化するなら、経済社会はできるだけ個人の性欲の面倒を見たくないのだ。経済社会の理想は経済成長だから、個人の労働をスタイリッシュにするためにも性欲は数秒で事務的に処理されるのがベストだとされる。そのときにオナニーネタが、能率の悪い人体ではなく情報としての商品になれば、経済社会にとってベストであり、管理完成ってわけだ。
アイドルはより多面化された情報ということになる。そして、オナニー対象は自らの欲望を鏡に映したものにすぎないから、自らのからだ自体が性対象化していく(第一段階としては異性に対して)。このとき神秘主義化するのは、ストレートの男の場合、女の実際のからだ、ということになる。それが、情報というベールによって深層へ遠ざかっていくのが情報化社会というわけだ。反復になるが、それをもたらしたものは人間の本質でもなんでもなく、単に資本主義からくる経済効率の要請にすぎない。この金塚貞文の考えはおもしろい。
フーコーが、貴族階級が血統を守ろうとするその要請から、性を神秘主義化していったと述べたとき、シュルレアリストたちがやたら性にこだわり当時の新発見だった無意識をいかに武器としたのかが見えてきそうな気がする。その異国の風景を澁澤龍彦周域が日本で完成させようとしたものももう少し理解できるようになる、そんな気がしている。
視覚詩へ
西洋から発した 未来派,DADA,シュルレアリスム の影響から始まった日本の前衛詩/実験詩にアウトラインを引いたうえで、視覚詩の海外動向にも目を向ける。中野嘉一「前衛詩運動史の研究 モダニズム詩の系譜」(沖積舎)と四方章夫「前衛詩詩論」(思潮社)をとくに参考にした(この両書は存在を知ったとき本当に感動しました)。ページ制作動機は2つある。まず、現代詩とは何なのかという後世世代から見た正直なところのよく分からなさを解消するため散文詩に注目したが、そこから改め、現代詩以前の前衛詩に注目することが良いと考えた。次に、目につく詩という思想を抜きにした評価軸に(いわゆる頭では分かってはいながらも)寄る自分から脱するには、逆にときに過剰に視覚的である前衛詩/実験詩から背景にある思想を確認していくことが良いと考えた。つまり、思想を作品に見たいという遅れてきた残党のような気分を2009年末の今、抱えている。そして、この2点を総じて、大正~戦後詩にある〈日本〉という過去を知ることは豊かだと考える(これら以前にあたる漢詩については齋藤希史「漢文脈と近代日本―もう一つのことばの世界」(NHKブックス)に感銘を受けた)。また、辻惟雄「日本美術の歴史」(東京大学出版会)でアニミズムとともに強調される あそび かざり に対し神津朝夫「千利休の「わび」とはなにか」(角川選書)にて示される わび さび を重視するのは、学生時代のときに読んだ椹木野衣「日本・現代・美術」(新潮社)が示すところの〈悪い場所〉という概念がいまだ心に深く根ざしているからに違いなく、ゆえに、ここではその根源の1つニヒリズムとは違う照射を実験する(大正ダダ以後の)詩人たちの軌跡を追いたい。追従ではなく、例えば辻潤にも魅力を感じる僕が、その日本を舞台にした両側の遺産を知ること。精神のあり方の開拓をエメラルドに行いたい。
2022年追記:以上の前置きをもって、上のリンク先で、
未来派
平戸廉吉
神原泰
ダダイズム/アナキズム
辻潤
高橋新吉
吉行エイスケ――売恥醜文
萩原恭次郎
モダニズム
春山行夫
北園克衛=橋本健吉
を確認している。視覚詩-コンクリート/ヴィジュアル・ポエトリーでは、新国誠一と高橋昭八郎の項目を用意していたが、手つかずのままになっている。長畑明利の論文「視覚詩を読むこと――Steve McCafferyのCarnival」などでも〈古代ギリシアにはすでにその例がある〉という視覚詩を、今後見ていきたいと思っている。
_underline, 2006 追記 2009, 2022