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〈SNSという都市〉の郊外に住んでいる

これは〈可視化できない応援〉についての考察で、「応援とは何だろう」という項目から読んでもらった方が、入り込みやすいかもしれない。

90年代は貢献していなかった

インターネットがまだ世の中になかった頃、振り返ってみれば、自分が応援しているミュージシャンに、ほとんど金銭的な貢献をしなかった。

中古レコードを買いまくる人達が、サブカルチャーっぽく自ら「レコードやくざ」と名乗る時代があったが、彼らは購入層に情報を届ける側の役割を同時に担っているため、定価の購入が稀であっても巡り巡ってミュージシャンへの収益に大きな影響があるのだというロジックが、議論の結論としてあったように思う。

こういうロジックとまったく無関係の20代を過ごしたわけではないのは確かだが、ここでの論点とは違う。


届かない応援が潜んでいること。


ソニー、日立、日本コロムビアから、1982年の10月に、そして、その2年後に5万円を切る「CDプレーヤー」が発表され、さらに2年後にはCDがレコードの売上を追い抜いた。


そうやってCDが大衆化した先の文化で思春期を過ごし、レンタルCD店で全盛だったバンドブーム期の日本のミュージシャンのアルバムを片っ端から借り、カセットテープに保存し、歌詞カードもコピーした。海外のロックを知ったあとは、口コミ、ラジオ、TV、雑誌の情報だけを頼りに、街の至るところにあった中古CD店に通う。


より多くの音楽を知るためには、可能な限り定価よりも安くアルバムCDを購入しなければならない。学生時代、収入の大半がCDに費やされ、食費も最低限に切り詰めた。


ファン心理から、ときにブートレグ(海賊版)も購入する。


レンタル、中古、ブートレグ……。


ファン心理とは裏腹に、ミュージシャンという制作者のもとには、一切、自分が払ったお金が届かない。定価で買うことも、ライブを見に行くこともあったが、数えるほどだ。そもそも、特定のミュージシャンよりも文化そのものに関心が強かった。フリーマガジンなどで、例えばエレクトロニカの特集がされれば、ピックアップされているミュージシャンのアルバムを中古屋で集める。コレクター精神もある。


今でいうなら、(2020年で11年間のサービスを終了した)NAVERまとめのようなサイトで、未知の音楽を探しまくり、YouTubeのような動画配信サイトで、オフィシャルではないアップロードされた音楽映像を掻き集め、聴きまくる感じだ。


なぜか、貸し借りはあまりしなかった。


自分が好きな曲をまとめてミックステープを作り、友達にプレゼントすることはあった。それは、DJカルチャーとの接続の、純粋な原風景だ。



応援とは何だろう。


例えば日本のバンド、GREAT3を知ったのは、前期のあと、ジョン・マッケンタイアのプロデュース期で、それ以降は定価で購入しているが、自分がこのバンドにのめり込んだ総時間数とその思いは、まったくミュージシャンの側に届いていないだろう。


思いすら、届かない。


こういうことを改めて考えたのは、サブスク(サブスクリプション・サービス)のオーディオ・ストリーミング・プラットフォームであるSpotifyのミュージシャンへの収入分配方式が、再生回数に関連しているからだ。


レンタルや中古がメインの購入ばかりで、ミュージシャンがレーベルのもとで販売した音源という観点では、一切といっても過言ではないくらい応援してこなかった自分が、サブスクというプラットフォームで、初めて金銭的還元をする側の存在としてカウントされるようになったのだ。


Spotifyでは、オリジナルプレイリストを作り、公開することもできる。


そのフォロワーが増えれば、マニアックな曲でも、再生回数が増える。


再生回数は、一面では、想いの強さとも関連する。


ところで、


〈SNSという都市〉と呼んで差し支えない構造がある。


2004年に登場し、2006年からとりわけ全盛期まで、のめり込んでmixiという老舗SNSを使った。そのとき、〈SNSという都市〉について、ぼんやりと考えていたが、真剣には考えなかったことがある。


考えるべきだったのだ。


〈SNSという都市〉を構成するのは、リアクションだ。


SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の時代が始まり〈いいね〉という機能がメジャーになった。


自分は、投稿はするが、滅多にいいねを押さないタイプだ。


なぜしないんだろう。


SNSやブログ以前、回線による通信をもちいる交流のプラットフォームは、掲示板、ホームページ、その2つだった。


掲示板では、双方向でおしゃべりを好むが、後者のホームページでは、自身の専門分野を論文として発表したり、情報の海から手繰り寄せたものを自分なりに編集し、ウェブサーフしてくるユーザーたちに一方的に提供していた。良いと思ったものは、一旦咀嚼する。インターネット上に様々なアンオフィシャルなファンサイトやレビューサイトが生まれた。


ネット掲示板の文化では、インターネットには接続するが、ただ読むだけの人たちがいる。〈ロム専〉といい、匿名掲示板(BBS)の時代では、自分もロム専だった。


考えてみれば、自分は、後者の一方向のホームページによる発信を好む側だったため、ロム専だったし、双方向でおしゃべりを効率化する〈いいね〉という機能が、今も馴染めない、ただ、それだけのことだ。


そのホームページという文化は、ブログによって衰退した。


そして、プラットフォームの変化により、アプローチされる情報に変化が起こった。


このとき、掲示板という双方向文化(インタラクティブからWeb 2.0)は、ブログを経てSNSとなり、都市となった。ホームページ文化は価値をなくし、郊外となった。


2000年に日本語版ができたネット通販サイトamazon、そのレビューページは、インターネット上に様々にあったアンオフィシャルなファンサイトやレビューサイトの次世代のプラットフォームとなった。


自分の好きな作家のレビューが、このとき、なぜか見えなくなり始めた。


レビューサイトでは熱狂的にピックアップされていた作家やミュージシャンの作品をamazonのレビューページで見てみると、誰も感想をつけていないことが多かった。


自分の好きなものは古くなった。世代交代が起こった。そういうことだろうか。


そうではない。


このとき、思ったのだ。


自分が、ネット以前から応援する作家たちに関係のある人たちは、SNS以後、いいねも押さなければレビューもつけない、と。


自分同様に。


それどころか、まともにSNSをしていない人が多かった。


スマホ以降変化はあるが、ネットに滅多に接続しない。中には、スマートフォンを今でも持っていない人もいる。



彼らは〈SNSという都市〉に住んでいないのだ。


ここで、〈都市〉と〈郊外〉に分けている理由は、ヒエラルキーの話をしたくないからだ。


都市に住んでいる人と、郊外に住んでいる人と、何ならもっと田舎に住んでいる人と、誰が偉いだろうか。


どこに住んでいようが、偉いも糞もない。


5年前は郊外に住んでいたが、2年前は都市に住んでいて、今は田舎に住んでいる人だっている。郊外でエンジョイしたあと、〈SNSという都市〉に住んでその環境を楽しんだあと、田舎でまた別のライフスタイルを模索したっていい。


まったく別の都市に住む人もいる。


それが、幾らかの良質なオンラインサロンである場合もあるだろう。


自分は、自身のオフィシャル・アカウントを持ってはいるが、SNSに積極的に参加しているとはいえない。


〈郊外〉から頻繁に〈都市〉へ出向く、旅商人のような立ち位置だ。
いうなれば、


〈SNSという都市〉の郊外に住んでいる


この話は、既存の商業ベースで活動することによって商業ラインに乗れるように、参加すればいいだけの話のように思われるかもしれない。


しかし、話がそう単純であれば、こんな文章は打たない。


先に触れたように、


届かない応援、が存在する。


そういう人たちを第一に、概念として重視したいのだ。


音楽でいえば、1970年の前後、イギリスを発祥にして世間を賑わしたプログレッシブ・ロックを最後にし、コンパクトな曲ほど購買数がとれる世界になっていった。アクセス数の観点では、ホームページは短いブログ(おしゃべりの長文)となり、140文字のTwitterが最も拡散される。


かつて、インターネットは総合知(IA)に期待がかけられたアカデミズムなものだったが、やがて、インターネット=仮想空間を利用する大衆の好みを推し量る人工知能(AI)が主流となった。


物の売買は、データの売買となったが、定額サービスというサブスクリプションは、再び長い曲の居場所をもたらすかもしれないし、ロングテールではマクロな観点でしか実現できなかった、マニアックな、ニッチな商品や作品、その制作者の居場所をも作るかもしれない。


それは、とても明るい話だ。


しかし、そこからも外れるのが、届かない応援、だ。


幸福は、良い未来の同軸に、現在を置けた状態で得られる。


リアクションというのは、分かりやすい尺度だ。


何かをアプローチして、良いリアクションがあれば、次も何かアプローチすれば良いリアクションがあるだろうと思えてしまう。この状態は、良いリアクションがイコール、良い未来であり、それと同軸に現在が置かれた状態だ。


仮に、リアクションがずっとゼロなら、このアプローチを続けても、どうせゼロまたは悪いリアクションを自分の未来にもたらすだろうなと考えるため、このアプローチは意味がないと結論するかもしれない。


左遷され、上司から穴を5m掘ってと言われたあと、その出来た土の山で今できた穴を埋めてねと仕事を言い渡されるのが、悪いリアクションだ。


大きなヴィジョンがあるなら、良いリアクションの集積は、一歩一歩の階段を踏んでいる実感として、幸福に繋がるだろう。


宗教的合一。


今自分がやっている仕事は、アンダーグラウンドの次なる段階に繋がるはずだ、今自分がやっている仕事は、仮にここで自分が息絶えたとしても人民解放の革命の夜明けに一役買うはずだ、今自分がある特定の小さな買わない選択をすることで動物愛護やロス問題の総合的な一歩になるはずだ。


世界は糞だ、しかし、この感動は、まだマシだ、と思うとき、その感動の源には、深層心理に潜む、良いか悪いかの未来へのジャッジがある。


そもそも感動とは、生存本能的に、未来そのものだと思う。


石井光太の本では、絶対貧困でプラスチックしか食べるものがないような子どもたちには、自分だけの〈小さな神様〉がいると語られている。


アンデルセンの童話でマッチ売りの少女が、結局は寒さで死ぬにしても、暖かい世界を仮構することで幸福状態を維持できたのは、もはや現実の、現状などは関係なく、それでも良い未来を思い描けて、その仮構された未来と同軸に、現在のマインドを置けたからだろう。


もし野次馬のような誰かに話しかけられても、マッチ売りの少女にとっての〈小さな神様〉という未来系の幻想「祖母と今いる」など「いないじゃないか」と馬鹿にされて吹き消えてしまうだろうから、決して口にしないだろうし、だが、ぎりぎりのところで心ある誰かに助けられたなら、極寒の現状とは一切関係のない祖母といる未来像が、命を食い止めるファクターとなるだろう。


私は、貴方を思い続けている。だけど、それを口にしてはならない。そうすると、思いの魔法が解けてしまうから。


という、究極的な思いは、決して数字に還元されることがない。


パラドックスそのもの。


糞みたいな世界で、あるときのたった一つの言葉で救われて生きながらえる人々が大勢いる。


きっと、自分もその一人だっただろう。


例えばその言葉を発した人の行方を、追ったりしない場合がある。


10年後、まだがんばっているんだ、と知って嬉しくなったり、とっくに活動を辞めていたのを知り、少し切なくなったりもするが、再建された自分の人生があるので、わりとすぐに忘れるだろう。


どっちにしても、たまに思いだし、やっぱ良いなぁ、と思う。


たまに思いだし、ありがとう、と思う。

そういう応援もある。


本当に、まったく数字に還元されない。


作家当人に伝わることも、ほぼない。


これは何だろうか、と思う半面、どちらかというと、そういうことの方が大半で、数字(金銭)への反映や、当人への伝達など、むしろ稀なのだ。というか、文脈が、まったく別なのだ。


可視化できない応援がある。


作る側であろうとなかろうと、すべての人は、ユーザーであり、その対象が作品であろうとなかろうと、関係ない。


ある夜に見た月が美しすぎて、記憶の中のその月を心に留めて生き続けることもあるだろう。その人は、あの月に憑かれたのだ。その人は地方の漁師で、子供も持たず、妻と二人で、地道に日々の労働をしながら、人生を終えるかもしれない。月のことは、誰も知らない。

今、話しているのは、そのような感動が、数字の津波によって押し流されてしまわない方法への問いかけである。


高度消費社会へのカウンター。


20世紀から、散々聞かされてきたアジテーションの変奏だ。


自分は、例えば、テレビが嫌いではない。


無趣味の高齢の母からテレビを奪えば、地獄しか見えない。


世の中には様々なものがあり、よりによってテレビなんかを選ぶ必要はないという意見は分かるが、たぶん、それはエリート主義だ。


それに、俳句の才能査定ランキングのような、小学生にまで教養の伝達を実現している素晴らしい番組もある。


そういうことは押さえておきたいが、とはいえ、所詮消費物だ。


The BOOM 宮沢和史の、ディープ・ラブな曲ばかりを集めて作ったSpotifyのプレイリストをBGMに、この文章を打っている。無数のコンテンツに支えられて、自分は生きてきた。


高度消費社会は、好きですらある。


それが、生々しい壮大な市場であっても、ときに美しい。


そういうことも、押さえておきたい。


だが、三人称ではなく、一人称として、思う。


自分だけが見つけ、(米津玄師はHachiの頃からファンだったとかそういう)他者との共有欲、その、射程範囲外にあるものが、なによりも、尊い、と。


可視化不可能性。


これはエリート主義ではない。


誰もが、自身の人生において、視点を変えれば、そこにある。



_underline, 2020.11

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