石を置く。
昨日の夜、大学の友達と哲学対話をした。今回は、その記録である。
昨日の問いは、
「考えるべき?石を置くべき?」
大学のとなりに、小さな喫茶店がある。美味しいコーヒーをだす。喫茶店だからまあ当たり前かもしれないけど。
そこの喫茶店のマスターが、とてもいい。噂でちょっとやばい人とも聞くが(内容は秘密)素敵な方だ。コーヒーを一心に追い求めてきたんだろうなあと思う。2席しかないカウンターに腰掛けて、人もまばらだったりすると、よく話をする。人生のこと、勉強のこと、進路のこと、友達のこと、恋のこと、いろんな話をする。
昨日その喫茶店に行った。哲学対話しながらコーヒーでも飲もうと思って、タンブラーにあったかいカフェラテを入れてもらいに。
「今から勉強?がんばるねえ」といつもの調子で聞いてくる。
「いや、今日は勉強じゃないんです。哲学対話する予定で・・・」
「・・・てつがくたいわ?」
ですよねえ、急に哲学って言われてもわけわからんだろうなあ、堅苦しいと感じるだろうなあと思って噛み砕いて説明する。
「哲学対話っていうのは・・・」
「へえ何それ!!面白そうじゃん!!」
ここまでの予想は何となく想像できた。でも次が少し、意外だった。
「僕ね、僕の意見はね、考えるよりも、石を置くことも大事じゃないのかなって思う」
永井玲衣さん風に言うのなら、ガシャン、と聞こえた気がした。
そんなのが、実は月曜日にもあった。
ゼミで、ある中学校から先生をお招きして、その先生と教育について哲学対話する、ということをした。
実を言うと、その先生と哲学対話をすることは少し苦しかった。
「みんな、教師になりたくないって言うけれど、何でなの?こんなに面白い職業は他にないよ!なんでそんなに仕事をすることに抵抗があるの?自分のやりたいことですごいことやってお金を稼いでまた自分のやりたいことやって、毎日がワクワクするよ!なんでそんなに悩んでいるの?やってみないとわからないじゃん!」
これも一種の、ガシャン、だったと思う。
考えるべきか?石を置くべきか?
要は、考えるべきか、行動をすべきか、そういう問いだと思っていた。
考えることが好きな私にとって、無理に行動する、というのは少し苦しいことだ。行動することで、必ず何か結果を出すよう求められているようで、行動することでそれについて何か学びがないといけないようで、そんなに期待しないでよ、と苦しくなってしまう。
喫茶店のマスターが言った「石を置く」が、この意味での「とりあえず行動する」だったかどうか、真意はわからない。でも普段そう言うことを言う人じゃないと思っていたから、そうであって欲しくない、と勝手に思っていた。
そして昨日の哲学対話の最中、こんな意見があった。
「石を置く、と言うのは、『木を植える』『種をまく』とは似ているようで全く違う。きっと、ただとりあえず行動する、という意味とは違う。囲碁の石みたいに、考えて考えてその上の行動だったり、とりあえず今の自分のベストはこれです、と、宙に浮いたようになっている自分の存在を、重みのある石で確認することなんじゃないのかな。」
ふああああ、なるほどう。
「また、石を置くとは、急激な川の流れに乗っかって行ったり流されていたりする周りへの、自分の今はここです、自分の今できるところはここです、ここから動かないぞ、と石をおいて足場にし、川の流れに逆らうことではないかな。」
うわああああ、たしかに。
もしも、「石を置く」が、「気を植える」「種をまく」とは別の意味だとしたら、自分の今はここです、と自分で軌跡をつけるためのものだとしたら、私は考えることと同様に、石を置くことを大切にしたい。現にこうやって、noteを書いたり、毎晩日記をつけたり、石を置きまくっているのだし。
もちろん、行動することも大切なはずである。哲学していると、どうしても、「頭で考えているだけで、実際にやってはいないんでしょ?」と言われるときもある。
それでも、考えることが、ただただ楽しいから、私は考えたいのだ。
ある後輩に(いわゆる意識高い系、にはいるような、すぐに行動していそうな子だ)、なんでそんなに行動するの?と聞いたことがある。
その子は、ただ、「楽しいから!」と言った。
行動することが楽しいのなら、私は大いに行動すべきだと思う。でも、結果を残すために、何かを残すために、前だけに進むために、行動して欲しくない、と思う。ただ苦しいだけじゃないか、大丈夫かなあ、と不安になってしまう。
結局のところ、マスターのその言葉の真意は明らかではない。
今度、また寒い日に喫茶店に行って、コーヒーを飲みながら話をしてみようかな。
ちなみに写真はその喫茶店のコーヒーとケーキです。
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