私
私は私を知りたい。
最近よくそう思う。
年が明けてから、読書するようになった。
クリスマスに、プレゼント交換をしたのだが、そこで本をもらった。「そしてバトンは渡された」。
読んだあと、ああなんか物語って良いなー、と、そのくらいの感じだったけど、そこからなぜか、その一冊だけでは終わらず、小説を読むようになった。
結末に涙する小説も、ハラハラドキドキなミステリーも、最終的に「?」みたいなSFも、気持ち悪いけど惹かれる物語も、もっと読みたい。
そう思った。
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「役者が、演劇で役を演じることは、役者自身の自己形成に影響を与えるか?」
という感じの問いの哲学対話をした。演劇に関わっている方が出した問いだった。
私は演劇なんてしたことはない。あまり見る方でもない。
小・中学の文化体験みたいなものや、親に連れられて、年に一回、地元のホールに来た劇団を見に行くか行かないかくらい。
この問いを聞いたとき、「おおお、難しそうねぇ・・・」と思った。
でもよくよく考えてみた。
仮に、私が役者として、演劇の中で俳優に恋をする、という設定があるとしたら、私は現実世界でもきっと、恋に落ちてしまうと思う。
幼い頃、ハリー・ポッターをよく見ていた。
見終わったあと、私も魔法が使えるんじゃないか、と思ってみたり、ハーマイオニーのような、正論を整然と述べるようにしゃべってみたりしていたのを、覚えている。
たぶん、私は影響されまくりだろうなぁ、と思う。
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こんな意見が出た。
物語に没入することで、その登場人物の人生観にそっとよりそって、触れる。
それは、共感という形で現れるかもしれないし、共感しない、という形で触れることになるかもしれない。はたまた別の現れ方かもしれない。
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「どんなときに、自分らしさを感じる?」
というプチ問いもそこで出た。
ある人は、「怒りを感じているとき」といい、
またある人は、「他人に違和感を感じているとき」といった。
私は、わからなかった。
私がどんな感情を感じていたとしても、
それが怒りでも許しでも、違和感でも共感でも、
それらは全て、私だなあ、と思う。
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その哲学対話でこんな意見がでた。
「私たちはある意味、人生という演劇の役者。日々、役を演じている」
確かに。
友達と、恋人と、先生と、家族の前にいる私は、
昨日の私は、今日の私は、
全く違う。
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考えれば考えるほど、自分という存在が、いかにもろかったか、思い知らされてくる。
あああ、私、ってなに。
知りたい。とっても知りたい。
私ってなにで、だれで、どんなの。
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そんな哲学対話の断片を集めていたら、ふと、思った。
ああ私は、もっと自分を知りたい。知りたいんだ。
何に共感して何に共感しなくて、今日はそう思うけど昨日はそうは思わなかった、小学生の頃じゃ意味がわからなかったけど中学生だったらわかった、人を失ったらこの悲しみがわかるようになった、一人暮らしをしてみて理解できた、逆に理解できなくなった、
そういう、物語と私、他者と私を結ぶ、糸のようなカケラのようなものを集めて、
私が構築されていく。そうしてようやく、私は私を見ることができる。
永井玲衣さんが、いつか、
「中学生の頃、めっちゃ本を読んでいた。でも他者が怖すぎて読んでいた。」と言っていた。
だとしたら、私は、「私のことが知りたすぎて」本を読もうと思う。
見てどうするの、知ってどうするの、とも思う。
いや自分についてだけ知ったところで自己中か私は、他人にも興味を示せ、とも思う。
でもそんなのが吹き飛ぶほど、
私は私を知りたい。
だから、
物語に触れよう、触れ続けよう。
対話をしよう、し続けよう。
そう思った。
ちなみに写真は「そしてバトンは渡された」の表紙。でも画角が合わなさすぎてよくわからなくなってしまいました。
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