労働と怠慢

働くのが嫌い。暑いのも嫌い、寒いのも嫌い。人と話すのが嫌い。皿洗いが嫌い、洗濯が嫌い、掃除が嫌い。運動が嫌い。

このように、生活の大半が嫌いである。

こうなると、生きるのは結構辛い。そう言うと、心無い人から「死ねば?」という言葉が返ってきそうだ。実際、母親にも似たようなことを言われたことがある。

僕は、人間は大抵怠惰な生き物だと思っている。しかし、それを口にすると、ネガティブだのニートだのと言われる。でも、よく考えてみると、世の中は矛盾に満ちていないだろうか。だって、怠惰になるためにこそ仕事があるのだ。洗濯機や電子レンジだって、もともとは人間の手間を省くために発明された。「必要は発明の母」と言われるが、すべての発明は怠惰を源泉としていると言っても過言ではないだろう。

怠惰があるからこそ、労働に価値が生まれ、その対価が支払われる。誰かの怠惰を補うために、誰かがお金を払う。こうして考えると、人間は本来、怠惰な生き物なのだ。

まあ、その怠惰にも限度があるだろうというのが一般的な見解だろう。しかし、僕はかなり堕落的で怠惰な人間だ。思い返せば、幼少期から消極的だった。決まった時間に学校へ行き、決まった科目を勉強する。それが大人になれば労働へと変わるだけだ。小学校に入学した瞬間、それに気づき、同時に絶望した。そして、「なんて生きるのは苦しいのだろうか」と思った。それから毎日が苦しみの連続だった。学校へ行きたくなくても、そう言うと親に殴られる(僕の時代はまだそういうことがあった)ので、仕方なく通っていた。無論、親も学校も、僕にとっては苦しみを押し付ける元凶だった。

小学校3年生の頃、将来の夢を書く作文があったが、僕は「本屋さんの店員」と書いた。幼い自分が、最も苦しみが少なく、楽そうな仕事として「本屋さんの店員」を選んだのだろう。本屋さんの店員さんが楽な仕事ではないと今はわかっているが、僕の家の近くの古本屋のお兄さんがいつもレジで本を読んでいるのを見て、その印象が強かったのだ。だから、できるだけ苦しみの少ない職業である「本屋さんの店員」を選んだのだろう。怠惰人間の生粋のエリートだ。

このように、僕は幼少期から「生とは苦しみそのもの」だと直感していた。それは今でも変わらない。この厭世観を肯定する哲学が世界中にあると知ったのは、かなり後のことだが…。

僕は大抵のことが苦手で嫌いだ。端的に言えば「疲れる」からだ。労働なんてもっての外、最悪を通り越して害悪である。

意識高い系のライフハック系も大嫌いだ。仕事を頑張って自己実現なんて、単に労働に対して自己催眠をかけ、思考停止し、自己同一化させているだけだ。

自分の本来の怠惰さから逃げるための、ある意味では自分の真実から目を逸らすための常套手段だ。ある意味では、自分の無意味さや存在のちっぽけさからの逃避だ。

怠惰とは、ある意味、そうした現実と向き合わなければならない苦行でもある。人間は、結局、堕落し続けることなどできない。どこかで罪悪感に苛まれ、何かしら行動を起こす。堕落し続けることができるのは、堕落のスーパーエリートだけだ。僕ですらそれはできない。

無理やり結論を出すならば、人間とは本来怠惰でありながら、それに完全になりきれない、難しい存在なのだ。

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