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スウィングマンの歩み|創業20周年企画

スウィングマンは2021年3月28日に創立20周年を迎えます。一説によれば設立して20年存続する会社はわずか0.3%とも言われています。目まぐるしく時代が移り変わり、浮き沈みが激しいイベント業界において、数々の困難を乗り越えて「イベントで人の想いを叶えていく」という会社の芯をぶらさずに、折れることなく続けることができたのは、支えてくださったたくさんの方々がいたから。そして、その中心に、創業から変わらないもう一つの芯として社長・秋月義郎がいたからです。
 今回、20周年を機に、グラフィックレコーディングインタビューという新しい手法で、いまこのタイミングで、株式会社スイングマンが歩んできた道を、少しだけ立ち止まってしっかりと振り返ってみたいと思います。

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運命的なタイミングが重なった創業

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-まずは、株式会社スウィングマン創立20周年おめでとうございます。

秋月:ありがとうございます。笑

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-会社を設立されたのはいつでしたか。

秋:2001年3月28日です。37歳の時。

-37歳、独立するには油がのっていて、いい年齢ですね!ではまず、スウィングマン設立のきっかけを教えてください。

秋:実は、自分で会社を立ち上げるとはこれっぽっちも思っていなかった。

-そうなんですか?

秋:設立前に働ていた会社で、95年に東京ビッグサイトの竣工記念式典の仕事をした時に兼本という男に出会うんだけど、この男がきっかけ。

-兼本さんですね。もう少し詳しく教えてください。

秋:当時勤めていた会社の社長さんは、プランナーとしてすごい優秀な方だったんだけど、考え方が合わない部分が自分にも兼本にもあって、二人まとめて一緒に引き受けてくれるいい会社を見つけて兼本に伝えたら、「いつまで会社員でいるんですか?いい加減、会社を立ち上げてくださいよ」と言われて。

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-すごいですね、兼本さん。

秋月:だけど、会社の設立の仕方も全然わからなかったし、経理や総務みたいなことも分からないし、それをやってくれる人がいなければ、やりたくもなかったし、やっていく自信もなかった。そこの部分で誰かいい人材がいないかなと思った時にさらに前の会社で一緒に在籍していた、毛利さんという当時60を過ぎていたおじいちゃんがいらっしゃって…かつて、一流企業でも経理部長を務めた方でとっても信頼のおけるかただった。その方が引き受けてくれるなら立ち上げようということにした。

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-おぉ、毛利さん…反応はどうでしたか?

秋月:ちょうど連絡をしたら少し前に退職していて、ちょうど好きな写真を撮りながら日本中を回ろうかなと思っていた矢先という所だった。だから、「ちょっと待ってくれ。」と、兼本と会社を興すことになったから、一緒に手伝って欲しいことを伝えて、「わかりました。」と。そして、2001年3月28日を迎えることになる。

-創業は、秋月さん、兼本さん、毛利さんの3人だったのですね。でも、「自分で立ち上げるとは、これっぽっちも思っていなかった」のは意外でした。社長さんっぽいオーラがすごいから。なんなら、小さいころからそういう考えがあったのかと思ってました。

秋月:出身の奄美大島に社長さんなんていないから、社長なんて考えたことがなかった。(笑)自分で会社を興すなんてことも、どうやって会社が作れるかも知らなかった。とにかく1日も早く僕は島を出たかったけどね。

-なるほど。笑

秋月:動機としては薄いよね。でも、二人がたまたま空いていたっていうのが、本当に奇跡だった。だから創業できた。

-まさに奇跡!運命的なタイミングが重なって、スウィングマンは設立されたのですね。

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野望はなかったけど、とにかく東京へ行きたかった

-「とにかく1日も早く僕は島を出たかった」とおっしゃっていましたが、奄美いいところじゃないですか?奄美の人は奄美好きな人多くないですか?

秋月:そんなことないよ(笑)

-奄美での…秋月少年はどんな男の子でしたか?

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秋月:広島カープが好きな野球少年かな。

-広島カープですか?

秋月:今でもファン。兼本が広島で同じくカープファンだったな。

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-なぜ広島カープが好きだったんですか?

秋月:当然のように周りにはジャイアンツファンが多くて。ジャイアンツなんて…*%■×(誹謗のことば※自主規制)だろ?

-否定はしませんが。(笑)

秋月:そんな時に、真っ赤なストライプのユニホーム、広島カープを見て衝撃をうけた。なんじゃこりゃ!奄美にはないぞ…と。で、ファンに。まあ、巨人を好きじゃない時点で、少しひねくれていたのかもな。

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-さきほど「島を出たかった」とおっしゃっていましたが…

秋月:少年のときから…野望は…なかったんだけど、ただもう、とにかく島を出たかった。ただひたすら。

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-確かになぁ。私も小さい頃、奄美に住んでたんですよ。

秋月:えーーーっ??そうなのー?言ってよー!!

-はい、実は。(笑)

(しばらく、奄美トークに花が咲く)

-でね、ミスドなかったんですよ。私の小学校の時に。空港でおばあちゃんがミスドを持たせてくれて島で待ってる弟にはいってあげて。

秋月:めちゃくちゃ喜ぶパターンだね。

-1回、高速バスに忘れてきたときに弟に怒られて、バスの会社まで取りに行けと言われました。それは、とても無理で。やっぱり島の外にはいろいろあるから出た?

秋月:そうだね。鹿児島の天文館でさえ都会だと思ってたからね。

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-都会…。いや都会ですけど

秋月:いま行ったら、もうとんでもない田舎だけど(笑) 鹿児島と大阪におばさんがいて、休みになるとおばさんを頼って、兄弟だけとか一人だけで行かせてくれていた。その時の大阪はすごかったねぇ。

-大阪知っちゃったらなぁ。知らんければ比べられないけど

秋月:大阪にいとこがいて、プロ野球に連れて行ってくれたりとか

-あぁ、奄美にない…。

秋月:京都のお寺や奈良の大仏とかに連れて行ってもらって、単純にそれだけでよかった。

-そうですよね。確かになそれは出たいな。島出れるならどこでもよかった?

秋月:いやそこは、大阪や京都ではなく、東京じゃないとダメだった。

-鹿児島は?

秋月:もちろんダメだよ。笑

-嫌さがすごい。顔で言うとこんな感じですかねぇ。行くならてっぺんみたいな感じですか?

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秋月:いや、ていうか東京でしょって思ったんだよなぁ。

-それで、ようやく島を出たのは大学から?

秋月:高校3年終わってから。

-大学ではどんなことをされてたんですか?

秋月:なんもしてなかったね。(笑) なんせ奄美には大学生もいないし、大学生が何するかもわからなかった。東京に出る目的が叶って満足してて、ほかにやりたいこともなかった。それで、巣鴨の居酒屋でずっとアルバイトをしていた。

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全国行脚とプロとの出会い

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秋月:住まいが池袋で、アルバイトが巣鴨。山手線で池袋・大塚・巣鴨の、たった3駅の行動パターンだったわけ。せっかく東京に出てきたのに、気づいたらほんとに狭い三駅の間で一年半くらいの生活を送っていて。

-狭い!笑

秋月:そうしているうちに、芸能プロダクションに先輩がいるという、同期の女の子が、人探しているんだけど「どうせプー太郎しているなら会ってみたら?」ということになった。そこで、「芸能人のマネージャーに興味ありませんか」という話になりテレビで見てる人にどいう仕事をするのかとかいろいろ説明を聞いたが、ちんぷんかんぷんで…

-ちんぷんかんぷん。

秋月:それで、最後に質問ありますかと聞かれて、この仕事の何が楽しいですかと聞いたら日本中旅できるところかなと言われた。業務内容なんてどうでもよくて日本中行けるってだけで、芸能プロダクションに入りました。

-実際、日本中行きました?

秋月:日本中行った。47都道府県制覇もして。もう2-3周くらいはしている。

-すごい!私まだ行ったことないところいっぱいあります。

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秋月:最後に鳥取に行って終了。

-それは、コンサートとかですか?

秋月:コンサートとか、昔なんかで言うとバブル前から鹿児島の田舎のホテルなんかでやるディナーショーとかかな。僕らがやっていたのは。だから、毎年12月に入ったその時からクリスマスディナーショーが始まってずっとやっていた。
昔は、企業がお金を渡して生命保険会社とか勧誘のためにコンサートとかを
お客さんを引っ張ってきて入ってもらったこともあったしもう、年がら年中仕事があった。

-へぇ~。年がら年中…。ずっと一人の人のマネージャーだったんですか?

秋月:何人かいたのでその都度担当したりもするし音楽番組にミュージシャンの派遣をやっていたりとかテレビ番組の制作だったりドラマの制作だったり、昔はいろんなことをやっていた。
その22歳から29歳、その芸能プロダクションにいた間でいろんなことが経験できた。

-経験のなかで印象的だったことはなんですか?

秋月:やっぱりアーティストというプロに出会ったことかな。歌手とか、スタジオミュージシャンとかカメラマンとかいろんなプロに出会った気がする。

-忘れられない、あのプロやばかったみたいなプロはいますか?

秋月:それはたくさんいるけど、マネージャーをしていた布施明さん、「君は薔薇より美しい」とか「シクラメンのかほり」を歌っている方なんだけど。

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-知ってます!(スマホで画像調べながら)描けるかな30代の時こんな感じか。長髪だったんですね。

秋月:世界的女優のオリビア・ハッセーという人と結婚したんだから考えられないよ。布施さんは、普通にすごく歌がうまい人で。声量もすごいし。

-たしかにすごい上手いですよね。

秋月:コンサートのお約束なんだけど…本ベルが鳴りました、いよいよ緞帳が開きますっていうときになって袖まで連れて行くと、「秋月、俺帰るわって」必ず言う。それで5mくらい帰る。それで「いやいや、布施さんお客さんが待ってますから。」って「俺が歌うわけにはいかないんで。」って「そんなお前歌えよ。」って「そればっかりは無理です。」みたいなことを毎回やるんだよ。

-毎回。

秋月:で、「いやいや、それはできませんよ。みんな布施さんを待っているんですから、お願いします」となだめて、おだてて、送り出す。するとさっきまでのただの普通のおっちゃんが、もう素晴らしいスターになっているんだよ。普通に。

-普通にスターになってる、すごい言葉。笑

秋月:今思えば、布施さんも毎回重圧があって、戦っていたのかも。舞台袖ではただのおっちゃんでも、ステージでは大スター。その切り替えには毎度うならされた。それを「普通に」できちゃうことが、やっぱりプロだな、と。

-マネージャーは、布施さんだけですか?

秋月:布施さんだったり、ピンキーとキラーズの今陽子さんに行ったりとか当時、今思えば彼らが30代だったんだけども僕が22の時なんだけど、その時からすごいおじさんおばさんに見えていた(笑)

-秋月さんの22歳もあまり想像できませんが。

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秋月:あとは、プロとして印象的だったのが、スタジオミュージシャンだったな。

-スタジオミュージシャン?具体的なエピソード教えてください。

秋月:スタジオミュージシャンが番組のテーマソングを録音しますというときにその日にみんなが揃ったら、まず譜面を配る。「今日の譜面です。」って言って。それからアレンジャーの方が「1回音出してみようか」と言って始めるそうすると、もう普通にみんな出来ている。完成品として。

-練習の時間はない?

秋月:ないないない。しない。そんなのは無駄だから。譜面が来たらそれで、タンタンタンって一斉にやるの。

-すごーい。

秋月:それが当たり前だってことを知るんだけど、特にすごいと思ったのが
本番前に、間奏中にテナーサックスのソロをとるんだけど、アレンジャーさんから「もう少し鳴いてくれる?」ってもう少し鳴いてほしいんだよねって言われて…
「あー分かりました。」それで「じゃぁ、次本番言っていい?」ってなって本番になるわけ。

-鳴くんですか?

秋月:鳴くの。ウィーーーーンって。(笑)ああ!鳴いたってわかるの。

-へぇ~!

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秋月:なんだこの人達ってなった。(笑)

-ほんとですよね。なんだこの人たちって。

秋月:なんだこの人たちだった。

-そんな人がいるんですね。

秋月:それがスタジオミュージシャンなんだなってことだよね。
あとよく覚えているのが…スタジオミュージシャンが困るのは

「今日は福岡から来た田舎者のロックバンドだから
ちょっと下手にやってね。みんな。」って…

下手にやってってどういうこと?みたいな。

-すごいですね!

秋月:上手い人だから下手なことが出来る。下手な人は上手いことできないでしょ?

-たしかにたしかに

秋月:でも、上手い人が下手にやる方が大変なんだって。

-なるほど。しっかり下手にもできるのがプロ。

秋月:そんな感じで、たくさんのプロに会って、気づくわけ。「俺はなんもできない」って。すでに20代半ばで、これから、歌手やミュージシャン、映画監督とかになれるわけでもないという意味で。この人たちには、この道では、敵わないな、と。

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-なるほど。それは今でも変わらず?

秋月:ずっと思ってる。だからイベント作る側になったの。そうすると呼べるでしょ?制作プロデューサーの立場として、その人たちと仕事ができる。
だから、そういう意味では制作のプロにはなりたいと思ったんだ。すごいと思ったプロと、対等に仕事ができるように、自分もプロになりたいってね。

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イベント屋としての矜持

-イベントのプロを目指して29歳の時にイベント制作会社へ転職。そこで色んなお仕事をされたと思うのですが、なりたくてなったイベントの仕事、特に楽しかったのは?

秋月:えっとね、94年から96年くらいまでヤマハのイベントをやってたのね。当時ヤマハが子どもたちが減少することによってピアノ教室が廃れてきてなかなか教室が危険だぞっていう時期だった。それでヤマハが何をやったかっていうと、今までバイエルから始めてみたいなものを、あなたが好きな曲を弾きませんかっていうことを大人向けに始めたの。「もしもピアノが弾けたなら」を弾きたければそれだけ、ショパンの曲だったらそれだけを教える教室を始めた。それの広報イベントで「男たちのピアノパーティ」というタイトルで発表の場をこちらでセッティングして。

-男たちのピアノパーティ!

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秋月:そこの前後のライブで宮川泰さんていう、宇宙戦艦ヤマトとかを書いた大先生がいたんだけど、その先生のバンドがいて、ジャズの曲とかをその先生たちのバンドがセッションしたりとか。

あとは、西村由紀江っていう美人なピアニストがいて、その人が実際に弾き方を教えてくれたりとか、これで全国をまわったのよ。5~6人ずつくらい。

-いいですよね。

秋月:これは台本を作るのにその人たちのご自宅まで電話をして何がきっかけだったとかどういうシチュエーションがいいとか全部台本におこすための取材をしてそこには、奥さんだったりお子さんたちがゲストで来たりして
これは楽しかったなぁ。この時の名匠・宮川組のバンドのサックスを吹いてたのが平原綾香のお父さん。

-有名な…

秋月:サックスプレーヤー

-この仕事で何が一番楽しかったですか?

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秋月:ひとつは素人さんが一生懸命やっている。お父さんたちが誰かのためにとか、自分の夢を叶えるとか色々あったのが見れたっていうことと、それとやっぱり宮川先生のもとで仕事ができたことが楽しかったね。そのミュージシャンたちも超一流ミュージシャンだったから。

-ほかには、印象的なエピソードありますか?

秋月:ああ、そういえば兼本との出会いもこの会社で。彼が大学をでてバイクで広島から東京に出てきて、面接を受けにきた。その面接官が僕だった。

-ここで、兼本さん出てくるわけですね。

秋月:その兼本とも関わりの深い、弊社を20年支え続けてくれるキーパーソンがもう1人いて…1997年に有楽町に東京国際フォーラムがオープンして、1月~3月までオープニング開館事業っていういろんなことができますよというモデルケースをこの期間中に150くらい…やった。事務局として入って。

-150?誰が150なんて言い出したんですか?

秋月:東京都。(笑)

-死んじゃう死んじゃう(笑)

秋月:ほぼ死んでたね(笑)…実はそこで出会ったのが、大手広告代理店に勤める〇〇さん(現役のため伏字!)。とにかく暑苦しいくらい熱い男で。笑

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秋月:話はそれるけど、こないだも調布の自宅から高輪まで自転車で打ち合わせにくるっていう。汗だくになって…ホント暑苦しい。

-それは、暑苦しいですね。笑

秋月:東京国際フォーラムの時も、寝ていないのに毎日のように飲み歩いて…

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秋月:それぞれの立場でよい仕事ができた。そこから98年のアイフルカッププロゴルフトーナメントのお仕事につながっていく。兼本は、〇〇さんの会社にゴルフトーナメントの立ち上げのスタッフとして代理店に出向することになるんだ。そこで、こいつはできるってなってね。

-へえー。そうなんですね。

秋月:それが、今のスイングマンのゴルフの仕事の礎になってくんだよな。

-お仕事拝見しましたが、ゴルフ関係のお仕事も今でもされてますもんね。

秋月:外資系自動車メーカーさんのオーナーさん向けの世界大会まで続く、オーナーズコンペをもう13年やっているんだけど、昨年コロナ禍で初回を除いた15回の予選と決勝大会が中止となってしまった。だけど、代理店の〇〇さんはじめとした皆さんと、クライアントの対応が本当に素晴らしくて。コロナで大変な状況は同じなはずなのに、金銭的な補償を本当に親身になってしてくれた。

-えー、すごい!状況が状況だけに私も中止になった仕事がたくさんありました。

秋月:もちろん賛否はあるだろうけど、今年は抗原検査を参加者におこなって、緊急事態宣言下でも大会をスタートしてくれた。もちろんオーナーさんからの要望が高いってこともあるんだけど、うちとしては本当にありがたい。何より助かったし、仕事でしっかり返していきたいと思った。

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-ゴルフは屋外ですから、またちょっと違うイベントですよね。というか、ゴルフのスイングからスイングマンなのかと思っていました。

秋月:よく、言われるけど、違うんだよね。

-では、またあとでお聞かせください。話を戻しますが、150もの事業をやった東京国際フォーラムの時もたくさんのプロと関わったんですか?

秋月:外国からのトップアーティストもいたけど、お芝居もやるし展示会的なこともやるしいっぱい関わったかな。でも、そこで出会ったプロはまた違って…

-違うって…

秋月:30過ぎての国際フォーラムの時っていうのは、自分が得意とする分野の仕事以外の部分がたくさん見れて、一言で表すならプロの幅が広がったということかな。

-プロの幅?

秋月:今まで憧れとしていた自分がなれないアーティストのようなプロではなく、自分が目指すイベントを一緒につくる…広告代理店、照明・音響・映像のような技術の人たち、制作スタッフ、運営、舞台進行…、そんなたくさんのプロに出会ったんだ。仕事の仕方を学んだし、制作として生きるためのつながりができたし、考え方も変わってきた。

-どんなふうに?

秋月:僕らは、イベントに来てくれる人たちを楽しませなければいけない。

-そうですね。

秋月:でもそれだけではなくて、絶対なのはお金を出してくれる人が満足してくれない事には次にはつながらないので…そういった意味では優先がどっちってことはないけど、仕事を続けていくためには、クライアントさんに満足してもらう。
結局、それをすべて僕らは前提に置かないと自己満足で、やったところで何も残らないかなと、常に思うようになった。そのために、イベントに関わるプロは仕事するわけで、クライアントとお客様の満足は、イベントに関わるすべての人の満足につながる。その「みんなの想いを真ん中でつなげる」のが役目かなと。

-想いを真ん中でつなげる…

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秋月:ちょっと話は逸れるかもしれないけど、スイングマンの由来ってゴルフじゃなくて、バスケの神様マイケルジョーダンを最大限活かすことのできたスコッティ・ピッペンが得意としていたバスケットのポジションのことなんだよね。状況に合わせて攻めることも守ることもできる。

-ジョーダンがクライアントだったり、お客さんだったり…?

秋月:そうそう、そんな感じ!臨機応変に対応してしっかりつないで、満足させる。そのポジションが仕事で目指す立ち位置と似ていたので、「スイングマンいいね!」ってなんたんだよね。

-秋月さんにズバリ聞きます。プロに必要なことって何ですか?

秋月:引き出しの多さ?対応力っていうのかな。
クライアントさんと打ち合わせしてたもののいろんな状況でいろんなことが変わってきた時に、その一つのことに固執しないでその代案が出せるというのがね。その時に費用が変わるならそこまでできる対応力がやっぱりプロっていうことなんじゃないかなって思う。

-事前に会社案内を拝見させていただきましたが、まさに『イベントのプロ』について、めっちゃいい言葉綴られてましたね。おおぉ~って思いました。

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秋月:自分でもいいこと書くなーとは思ってたんだけど、言われると照れるな。笑

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創業から「順風スイングマン」

-創業してから、スイングマンは順調でした? 

秋月:おかげさまで、割と順調で。そういう意味で大きいのは、2002年からNHK放送技術研究所で行う技研公開という、放送技術を展示公開するイベントの仕事。これも東京国際フォーラムからの流れなんだけど、NHKプロモーションの飯島さんがつなげてくれた仕事。

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-結構印象深いというか思い出に残っている?

秋月:NHKの放送技術を研究しているところなんでモノクロからカラーになったり、ハイビジョンからスーパーハイビジョンになったり、4Kから8Kになったり、それって30年前から研究しているんだよね。

-え?え?え?

秋月:つまり、いま研究されていることは30年後に生かされる技術ってこと。

-大学でいう基礎研究みたいな感じ?

秋月:研究者が日々研鑽しながら研究して、実用化されるまでに30年。

-技術的には可能だけどみたいな感じ?

秋月:いま、4Kと8Kって家庭用のテレビが売られるようになったけど僕らが
2002年に始めた時にスーパーハイビジョン(今の8K)という研究が進んでいたわけ。それ見た時は、映像がきれいでたまげたよね。まだアナログテレビの時代だよ。

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-いまこれがスーパーハイビジョンとか言ってるのを当時見たんですよね。それはたまげますよ。2002年っても実用化されてる身の回りの物ってまだ…

秋月:ハイビジョンになったばっかり。「これ今のテレビに入れたらどうなるですか?」って聞いたら「爆発します」って言われた。笑
それくらいハチャメチャにすごい技術が、当時からイマイチ伝わってなくて。研究所の研究者もお客さんに説明するのに慣れてなくてね。このNHK技研公開も自分が感動したすごい技術を開発している研究者の想いや成果が伝わればって思ってやってたな。

-たまげますね。それは。

秋月:なんじゃこりゃだよ。あとは、2003年に大高がこの技研公開に大学背アルバイトとしてきてて…

-そこもつながるんですね。

秋月:技研公開は10年続いたあと、コンペで負けて。でも、大高が引き継いで翌年取り戻して。それ以来まだ負けなし。アルバイトだったあいつが、企画書書いて競合を寄せ付けず、現場では、スタッフも期間のべで800人を越える現場を仕切るようになる。

-つながっていくものなんですね。

秋月:感慨深いよ、ホント。余談だけど…NHKの仕事をしているっていうのは大きかった。NHKのついた会社から入金があるだけで、銀行の信用度が違ったし。笑

-NHKすごい。ほかのお仕事では、何かありますか?

秋月:あとは、30代、40代で規模が大きな自治体のイベントをできたのがキャリア的に大きかったかな?

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秋月:天皇皇后両陛下だったり、皇太子殿下だったりがお出ましになる…
いわゆる三大行幸啓イベント「国民体育大会」「全国植樹祭」「全国豊かな海づくり大会」、令和天皇になってから追加された「国民文化祭」なんかが追加されて今は四大行幸啓なのかな。その中でも、大きかったのがやっぱり、2005年の愛・地球博かな。

-もう、なんかすごそう…

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秋月:天皇皇后と皇太子ご夫妻、当時の小泉内閣の全閣僚とか、トヨタの会長さんとか、政財界のお偉いさんがたくさん。

-すごすぎる…

秋月:マネージャー時代にタレントの表の顔と裏の素の部分、普通のおじちゃんが大スターなんての見てたりしてたから、大臣であっても、政治家であっても、表の顔と裏の素があるみたいな感覚で、物怖じすることなくごくごく普通に1人の人間として接することができた…経験が活きたかな。

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つながりがつないでくれたから

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-愛・地球博をスウィングマンさんが受けられたのは?

秋月:NHKのプロデューサーで椿さんと朝田さんってかたがいて朝田さんは
男たちのピアノパーティをやっていたころの人で。国際フォーラムの事務局にいれたのも、朝田さんがちょうど僕が前の会社を辞めた翌日に電話がかかってきて「お前辞めたんだって?」って。

「いや、情報早いですね」って。「お前有楽町に行けね?」って言われて
なんですかって聞いたら、国際フォーラムが出来るからってそこにいてくれって言われて。行ったの。

-つながりますねー!

秋月:その朝田さんから愛・地球博の開会式を手伝ってほしいんだけど
でも東京から乗り込んで東京のスタッフだけでやったでは意味がない、これは名古屋でやるわけだから、名古屋のスタッフをうまく巻き込んでやりたいと。お前名古屋に知り合いはいないか?って言われて「います。」と。
2003年の全国生涯学習大会で出会ってものすごくできる印象だった脚本家の長谷川さんがいますと。

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それで長谷川さんが書いた台本とかを総合プロデューサーたちに見てもらって、この人で行けるねってなって、その時に舞台監督は誰かいるかってなった時に、長谷川さんから岐阜の小島がいますと紹介された。この男もすごくできる印象だった。この小島さんも、今では岐阜清流国体の開閉会式の総合演出なんかで、新聞に載ってしまうようなすごい人。(▼岐阜県知事から表彰される小島さん、すげえ!)

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それともう一人運営業務の達人の鬼頭さんっていう方がいて、じゃあその3人を巻き込んでやろうと。それが名古屋の財産になるからってスタートしたの。だから基本、音響・照明・映像・舞台チームも多くの名古屋スタッフが
参加してくれた。

-仕事自体を経験しているからプラス人とのつながり…。

秋月:そうね。経験すればするほどだよ

-人と人の繋がりが出来るからまたいろんな…

秋月:繋がりが出来るってことだね。

-その仕事ができるからまたそこで仕事を経験して、つながるわけですね。

秋月:僕なんかは、95年のビッグサイトや97年の国際フォーラムだったり、それからNHKに関わったり、そのあと、2005年の愛知万博の開会式・閉会式があってこれは、もう結果的にそこの人たちの繋がりでもって出来上がっている。
そして、仲間がいることもそうだけど、こういう仕事ってそういう「場」に慣れてるとかそういう仕事のやり方を知ってるっていう経験が実は一番の武器だったりするわけよ。
天皇皇后両陛下がいらっしゃっる時に、どんなルールがあるのか?セキュリティは?何が必要なのか?そんなこと知っている人少ないから、知っていればまたその次に仕事が広がってくる。

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だから愛・地球博以降、国民文化祭・茨城が2008年にあってそこからずっと、この10年間で国民文化祭は7~8回やったかな。それはなぜかって言ったら、経験しているからなんだよね。
2009年が静岡、2010年11年が空いて、2012年が徳島、2013年は早く忘れたい山梨(笑) 、2014年が秋田、2015年が鹿児島ですよ。

ここでは、またNHKエンタープライズの水野っていう、イイ男が出てくるんだけど。つながりといえば、その水野が大高の結婚式に出席して…ちょうど自分も再婚するってタイミングで。大高の結婚式に触発されて、やる予定なかった結婚式をやったという。で、その式もすごくよかったんだよな。

-本当に色々なことがつながっていくんですね!この20年であった大きな出来事として、2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災は、イベント業界にもかなり影響を及ぼしたと思うのですが…どうでしたか?

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秋月:実は、業績にはほとんど影響なくて。今思えば、兼本がゴルフ関連で広告代理店(現・I&S BBDO)、そして僕がNHKと会社の支える売上の2つの柱へつないでいった、その柱が強固だったからかもな。安定していて倒れなかった。

-すごいですね。

秋月:2008年に大高が入ってきてから、その2つ柱以外にもいくつも案件が増えて、JTBだったり、色々な企業さんの色々な案件が増えていった。つながりが、どんどんつながっていってくれたから、少し話は逸れるけど、50歳を迎えたときが結構衝撃で…

-というと?

秋月:50歳くらいになると、クライアントの担当者が年下ってことがほとんどで、次の若手の活躍の場を作らないとって思っていたんだけど…誕生日から数か月後の忘年会の二次会で…サプライズパーティーされて。

どーんとオープニングムービーが流れて、

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そこから、俺のつながりをひとめまめにしたようなお祝いコメントのVTRが流されて…あげくの果てに家族までそこに出てて…

-嬉しかったんですね。

秋月:嬉しいというか、イベントはさんざん作ってきたけど、自分が主役のイベントを作られたことがなかったから驚きすぎてなにが起きているのか理解できなかった。でも落ち着いたとき、つながりに改めて心底感謝した覚えがある。まあ、大高が企画してくれたんだけど。

-おぉぉ!たか、さーん!

秋月:創業から10年を機に有限会社から株式会社へ商号変更を機に、会社のロゴも変えて、東麻布からより東京タワーの見える赤羽橋に引っ越したり。

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(すいんぐまんと東京タワー写真 3/26撮影予定)

大高の社内結婚もあったな。結婚式にも、つながり大集結な感じだったな。

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2019年までは、ほんと順調だった。コロナ禍の今が一番の辛抱。20周年を20執念として1年延ばして、なんとかみんなで色々やりながら乗り越えてきた。そんな2020年のスイングマンも、みんな本当によくやったと思ってる。

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どこに出しても恥ずかしくない『〇〇』

-この先の夢とか会社の展望などはありますか?

秋月:実は、夢をもちなさいと言われたこともないし、小さい時に何になりたいと思ったこともないんだよなぁ。特に東京に出てきたころなんて、本当に今を生きてるって感じで、芸能プロダクションに入った時も覚えることがたくさんあるから。とにかくいま目の前にあるものを何とかこなそうって感じだった。
だから自分の子供にも夢を持ちなさいなんて言ったことがない。本当に持ってないんだよね。どうなんだろう(笑)

-会社を船に例えた時に、その船に乗っている社員の皆さんはもちろん
この船が進んだ時に協力してくださる色んなプロがとかいろんな人たちが
幸せになりそうだなって気がしますね。

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秋月:そうなるといいね。

-今日を積み重ねることで社員の皆さんにどうなっていってほしいですか?

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秋月:スウィングマンって船に乗っていれば少なくとも色んな事に関われるということをまず感じて欲しい。うちの会社の規模だと、孫請けのまたその下請けみたいなクライアントがだれか分かりませんみたいなのが一番嫌だ。だから、会議なんかでもそこのトップがいたということがわかるくらいの距離感で仕事をしたい。それは大高にもずっと言ってきたしそれが現実になっている。『クライアントの顔が見えない仕事はするな』ということは今までずっと思っていた。

-そういう仕事の経験ができるのは社員さんにとってすごいいい経験ですね

秋月:それを経験できれば、いずれ独立や転職するにしてもいい経験になればね。

-でも私だったら…心がちょっと狭いからせっかく育てたならうちに、ずっといて欲しいと思うんですけど。

秋月:そう思ってないわけではないけど、独立や転職もあるって覚悟はしている。うちにいたほうが本人のためになるんじゃないかと思ったらもちろん全力で引き止める…というか会社として大切な存在であることは伝える。でも、やっぱり本人の決断を優先したいし、そうしてきた。

-つまりスウィングマンにいることを活かして成長しいって欲しいってことですか?

秋月:そうだね。自分の力がつくことによっていろんな仕事が増えてくるよね。仕事が増えると当然人とのつながりも増えるからね。

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-この船で乗り切ってきたんですね。この船を大きくしたいとかあるんですか?

秋月:それは、ない。

-ない。いさぎよいですね。では、この船をどうしていきたいですか?強くしていきたいとか…。

秋月:サイズ的には、僕はこのサイズでいい。気が付いたら20年経っていたけど10人になったことは無かったかなぁ。それも会社が強くなるというより個々に強くなって欲しいと思っていたから。それで独立しないで会社に残れば会社の売り上げは伸びるだろうし、かといってどんどん人が増えていったとしても全部見れるわけではないだろうしね。

-20周年にあたって社員さんにメッセージをお願いします。

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秋月:僕は、芸能プロダクションやイベント制作会社で22歳の頃から、約40年近くになるわけだけど、そこには芸の力だったり役者さんの力だったり
とか、イベントだったり、周りから見たら本当に羨ましがられるんだけど、好きな仕事ができている。自分が好きな分野で色んな仲間が出来て、こうやって生きてられるっていうことは、本当に幸せ。みんなにも、そうなってほしいなと思う。
やらされてる感がいっぱいなの。若い時は若干しょうがない部分はある。
経験もないし…。だけどもっと楽しめばいいなって思う。
僕は地方に行くときは全てが新しい会場だったりとか人間関係だったり、
そこを一から築いていくわけですよ。言ってみたら中身を含めて何にもないところから作っていく。受付をどこに作るかから始まって、雨が降ったらどうするみたいなことも全体にわたって色んなことを考えていかなきゃいけないので、それが苦となるようであれば続かないと思う。
でもそういうことを含めて、イベントを制作するって人を喜ばせて、想いを叶えることに繋がるわけだから、楽しんでくれたらいいのになって思う。

-スウィングマンに関わる方々へのメッセージをお願いします。

秋月:20年やってこれたっていうことは、まさしく人とのつながりや協力してくれた皆さんのおかげでやってこれたので、心から感謝しています。いまここで全ての方々のお名前を出せなかったけど、その何千、何百という人すべてに。

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秋月:コロナ禍ということも影響しているかもしれないけど、大高をはじめ次の世代で次の時代にあった思考回路だったりとか、今日のグラレコもだけど僕らの発想では全くなかったこと始める流れができ始めてきている。この先何年僕がこの立場でいるかどうかはわからないけれども、この立場でいる限りは持ってる繋がりを社員にしっかりとつないで、皆さんとの新しい輪が広がればいいと思う。今日、関さんと繋がったようにね。(笑)

-素敵ですね。(笑)…最後に、秋月さんがスウィングマンの20年を一言でまとめると何になりますか?

秋月:………『財産』かな。スウィングマンが作り上げてきた繋がりは、『どこに出しても恥ずかしくない財産』だと思う。

-しっかり相続していかないといけないですね。(笑)

秋月:そうだな。笑

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グラレコを終えて--

わたしが西麻布にある芸能プロダクションに入社した1986年、22才。
会社には「パソコン」というものはなく、
「ワープロ」という物が数台あるだけだった。
「コピー機」を置いてある会社も稀だった。

社員が外出している時の連絡方法は「ポケベル」を使い、ポケベルが鳴ると「公衆電話」を探し回ったものである。

しばらくして、 鳴るだけだった「ポケベル」もデジダル化して数桁の数字が表示されるようになる。
そして、「FAX」という物が登場する。
遠く離れたところから文書が届く。まさか!である。

社員全員歓喜に沸いた。

世の中がバブル景気で湧き上がってた90年頃、でかい弁当箱のような物を持った怪しげな方々を六本木の交差点でよく見かけるようになる。
今の「ケータイ」の祖先である。
それを持っている方は大概ベンツに乗っていた。

90年代半ばになると、「パソコン」が世の中の中心になってくる。
そしてそれから加速度的に「インターネット」「Eメール」。
持っている人が珍しかった「ケータイ」は「スマホ」になる。
今やパソコンも「アプリ」の洪水だ。
「パソコン」1台あれば何でもできる。

仕事を始めてから35年。会社を立ち上げて20年。

進化を続ける世の中の「物」に驚き、感謝し、時代に遅れにならないように、そして使いこなせるようにその都度頑張ってきた。

そして、今回の「グラフィックレコーディング」である。

その音の響きに、またまた新しい、奇妙な「物」なんだろうと身構える。


新橋の現場で 「グラフィックレコーディング」を操るという関さんに初めてお会いした。
やわらかい語り口と鹿児島出身と聞いたところでいくらか心が安らぐ。

そしてやっぱり驚いた。

私の35年が「絵」で白いキャンバスに埋められていく。
「手書き」である。
時代に逆らっている。

これまで自分の人生を振り返ったことはなかった。

多くの素敵な人たちに出会い、多くの体験をさせてもらい、多くのことを学んだということが目の前で 「手書きの絵」になっていく。
関さんの巧みなリードもあり言葉がスルスル湧いて出てくる。

あっという間の2時間だった。
そして、私の35年が「一枚の絵」になった。
どの シーン も私にとっては決して忘れることのできない出来事である。

そして思った。

これからの残りの人生も 「グラフィックレコーディング」で、  関さんにちゃんとした 「手書きの絵」 を描いてもらえるような人生にしなければいけないなと。

さあ、素敵な旅を続けよう。


これを企画・実施してくれた大高、秋鹿に感謝。

そして関さん、本当にありがとう。

(秋月義郎 & Graphic recording :関美穂子

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