紀元前7世紀 約2700年前、出雲族(インドのドラヴィダ族 クナト王が始祖)による広域統一国家出雲王国が成立したそう。 東出雲王家の王宮は、王庭(現 神魂神社)。西出雲王家は現在の智伊神社が王宮だったそう。 残念ながら、本を読んだせいもあり東出雲王家にばかり興味が湧き西出雲王家の事はよく分からない。 気になる事がある。 初代大名持·八耳王と稲田姫の間には二人の王子がおり、東西王家として直轄地を別けたとある。 西は八島土之身(八嶋篠) 東は兄八島土之身(八嶋手
二王家による統治 主王 役職名 大名持 副王 役職名 少彦名 「彦」というのは、王子の意味 (と書いてあった物もある) 東出雲 富家 西出雲 神門家(本では臣と書いているが……) 初代 大名持 菅之八耳 皇后は稲田姫 稲田姫は、須我神社が実家だそうだ。 決して、スサノオでは無い。 はて?初代少彦名は? 私の記憶では分からない。 こちらが須我神社。 右側に見えるのが盛り上がったものが古墳に見えなくもない。この時代には古墳は無い。 ちょ
前期から中期にかけては、王家の当主がが亡くなると風葬にされた。 それは最高の葬儀の方法だそうだ。 明治の頃まで風葬は残ったらしい。庶民は土葬なのかな? 古代は、ご遺体を葬る前に遠方より親類などに死顔を拝ませる葬狩(モガリ)の習慣があった為、当主が亡くなると葬狩に備えご遺体の腐敗処理がなされた。(現在の天皇家のモガリたはちょっと違う) 口に漏斗を差し入れ朱(水銀)を流し込む方法で、朱は肺や胃腸を通り、毛細血管から全ての細胞に染み渡る。 (朱は毒にも薬もなる重宝するブ
王家は両墓制で、埋め墓と拝み墓がある。 最近知ったのですが、この両墓制は地域により結構な数が残っていてそんなに珍しいものでもないらしい。 参り墓と云うらしい。 神魂神社の奥に、拝み墓が在る。 タイトル写真が、その場所の手水舎で、何とも苔むしていて手水舎なのに威厳を感じたりしたのは、東出雲王家の拝み墓だという先入観のせいかしらん。 何故か、結界にも見える。 薄ぐらい参道の先には王家のそれに相応しい場所が有ります。 江戸時代に、この場所に城を建てようとして、この地を
出雲は、雲が多い。 八雲立つ。 和国統一の気運が高まった出雲。 各地の豪族達(元はイズモ族なんでしょうか)が、集まる様になる。 現在の神魂神社は大庭町。読み方によってはオオニワ。 出雲王朝が存在した頃は王庭オウニワ。 オオとオウどちらも王。読み方を変えるのはよく有る。 そこは、王宮(神魂神社)の場所であり、王宮の前の庭を王庭と呼ばれ、人々が交流の場として集まるようになった。王庭は大庭と変えられ、王宮前の王川は意宇オウ川となった。 意宇って、最初は“いう”と読むと
日本海沿岸を南下したクナ族🟰イズモ族は、現島根県出雲に到着。 雪深い出雲(当時もだろうか?)。 なぜ、熱帯地方から来たクナ族が雪深い出雲を選んだか? 製鉄の技術を持ったクナ族。 出雲には「黒い川があった」からだと、旧家の伝承で伝えられているそう。 現在の斐伊川。川の底や河原には砂鉄が溜まって黒く見えたそうだ。 出雲空港に、着陸する時見ることが出来ます。 何となく黒っぽく見えるけれど、そう思って見えると見える! 製鉄技法の云々はもっと素晴らしいブログ
インド半島全体にインダス文明を築いた民、ドラビタ人がいた。 約4·5000年前の日本でドラビタ人のクナ族が民族移動し日本で初めての王朝、出雲王朝を創ったというのだ。 ドラビダ人は母系家族制の農耕民族で戦いを好まない。 母系家族制というのは、家で女·子供が生活。 時折、夫がやってくる、夜這いみたいなものだそう。 西北から、好戦的で父系家族制の戦いに長けているアーリア人が侵入。多くのドラビダ人を奴隷化、そして母系家族制度を狙い混血化、南方へ逃げたがクナ(現在のグナ?
二度目に行った出雲。 それから、出雲が気になってしょうがない。 でも、遠い…遠すぎるし、行ったからと行って謎が溶けるものでもないし、諦めた。 紆余曲折…しまくり、その頃は奈良の神社ばかり行っていた。 奈良には事代主と云う神様が多い。 特に大神神社に関係のある所には特に多い。 出雲にはいたっけ? 大神神社に関係の有るといわれている。等彌神社(トミ)へ行ってみた。 今から5年前、偶然にも天皇が橿原神宮へ挨拶に来ていた日でした。 天皇陛下、皇后陛下がいらし
奈良へ通い始めたら、出雲を思い出すと「なんだか暗い」と感じるようになり、大和王朝だって奈良だ。 奈良で充分とそんな事を考えていた。 数年経って、身近な人が若くして亡くなり、いい所へ行ける様にと、出雲で頂いた御朱印の入っている御朱印帳を棺に入れた。 その御朱印帳が気になり出し、出雲はもう行かなくて良い所だと決めていたけれど、何だか出雲へ行かなくては!と云う気持ちになった。 出雲へ行った形跡を消した事に後悔した。 で、最初に行った場所へ行き御朱印を頂く旅をする事に。
出雲の独特な雰囲気に呑まれた。 旅行から帰り、初めて御祭神で神社を探してみた。 大国主命様を。 結構、少ない。 けれど、見つかった。 府中にある大國魂神社。 ちょっと、出雲大社に近い雰囲気。 御祭神が一緒だからか?なんて軽く考えてみる。 随神門の裏に、大国主命様と恵比寿様がおり、商売繁盛がご利益かと納得? 境内、摂社・末社をじっくりと参拝し(人が多かった)た。 後に、恵比寿様は事代主命様だと云うことを知る。 事代主? 今度は、事代主命様を探
神魂神社を忘れてはいけない。 こちらとても好きな所で、今でも上位に入る。 御祭神は、伊邪那岐、伊邪那美。 何だろう、ここは神社と云うより……と思った。 じんしゃがお好きな人で出雲へ行ったら必ずや行っているはずの場所。人気は高い。 相当高い。 現住所は、大庭町。 ここは謎の鍵を握る場所。 歴史深い所だそうだ。 そんな場所なのに現在の境内は広くはない。 出雲大社の大社造の原型。 近くに大山を遥拝する所があるらしい。 未だ行けてません。 今年は行
旅の目的を済ませた私達は、旅行雑誌に掲載している写真で場所を決めた。 日本初之宮? 須我神社へ向かった。 今の様に社務所が階段上ではなく下に在りました。 人も居ず、当時は神主さんの奥様が若い旅行者(私たちの事?)が参拝に来るのは珍しいと、色々と教えてくださった。 神主さんが作成した天皇家の家系図を見せて下さった。 研究者が貸してくれという程の物らしい。 天照大神から成るもので、二宮金次郎、西郷隆盛もその家系らしいと云うのがとても印象に残っている。 そし
出雲大社の後は、須佐神社の境内と言っても過言では無い【ゆかり館】に泊まることが決まっていたので(本でおすすめしていた為)、須佐神社へ向かった。 須佐神社。 相当、歴史を感じた。 御祭神は、素戔嗚尊。向かえ側には姉の天照大神。年に一度のお会いするそう。 ここには大国主命様、居らず。 参拝後、旅の最大目的の御神木を拝みに。 当時は、参拝者も少なく、柵もありませんでした。 木の根を踏まない様、見上げた御神木は太い‼️と圧倒されました。前もって聞いていたから
当時の私は、神社と言えばスピリチュアルな人のブログや、本を読んでみた。 何しろ初心者なものでして、何もが新鮮で、中でも江原さんの本を見てそこに載っている神社へ行ってみた。 霊能者が良く行く神社とか。 霊能力の片鱗もないのに。 そんな時、新婚の友人が出雲の須佐神社へ行ったらしい。 その御神木が、怖くて見られないそうだ。 「◯◯さん(私)と行けば見れるかも」と、何の根拠があったのか(多分、そんな事言ったっけ?と言いそう)一緒に行ってみたいと言われた。 私はサー
相当前に池波正太郎のエッセイを読んでから、京都へ行き自分の手の届く食べに行く内、お寺へ行き、ただ参拝へ行くのもつまらないので、御朱印を集め始めた。 その頃は、個人で御朱印を頂く人も居ず、そして若かったので、その意味も教えて頂いた。 懐かしい。 京都を制覇した者は?滋賀か奈良へ行くと、タクシーの運転手さんが仰っていた。 滋賀へ行きましたが、私はすっかり奈良派になった。 奈良は、お寺と云うより神社が多い気がした。 有名なお寺を参拝し、神社へ行ってみた。 先ずは、