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村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上・下)』(講談社文庫)

オシャレな表紙

 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(上・下)』(講談社文庫)、再読了。ついに終わってしまったか、という心持ち。

 70年代を背景にした前作『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険(上・下)』の続きであるものの、本作は明確に80年代を時代背景に描かれている。その対比は皮肉的に、時に冷たく描かれるが、主人公は同一人物であるため物語の内容は熱い。70年代を愛しながら80年代に乗り切ることができず、消費社会に辟易する主人公が、それでも最後に現実にとどまることを望み意志する姿は感動的ですらある。

 本作で重要になるのは「死」だ。前三作が全体で一つの「死」へとつながる物語であったのに対し、本作には一作の中に多くの、様々な形の「死」が提示される。そのどれもが重い。

 僕に最も印象を与えたのはディック・ノースの死だ。正直、彼の死についてだけで小一時間話し続けられるような気がする。『ダンス・ダンス・ダンス』の中で最も愛する人物だからかもしれないが、彼が死を迎えた時には悲しみも強かったし、いくつかの怒りを覚えた。その怒りの一つは、本作内できちんと消化されている。

 僕は溜め息をついて車を道ばたに停め、キイを回してエンジンを切った。そしてハンドルから手を放して彼女の顔を見た。
「そういう考え方は本当に下らないと僕は思う」と僕は言った。「後悔するくらいなら君ははじめからきちんと公平に彼に接しておくべきだったんだ。少なくとも公平になろうという努力くらいはするべきだったんだ。でも君はそうしなかった。だから君には後悔する資格はない。全然ない」

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(下)』、1988年、講談社

 素晴らしい言葉だ。僕にもこの言葉の意味がよく分かる。

 人が死んで即座に泣いたり後悔したりする人を、僕は信用しない。誠実さや公正さは、その人の命があるうちに最大限に表現すべきなのだ。伝えておかなくてはならないのだ。ましてそれを軽々しく口にするべきではないのだ。死に面した時に来るのは、生きてくれたことへの感謝であったり、驚きを超えた虚脱であったり、その死を背負って生きる覚悟であったり、不条理への怒りであったりするべきなのだ。相手を思い自分の内に向くものであるのだ。涙を流すなんてことは誰にだってできる。

 これで、初期村上春樹作品(短編は除く)を読み終えたことになる。昔は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が突出して好きだったが、今印象に残っているのは『1973年のピンボール』と『ダンス・ダンス・ダンス』だ。歳を重ねると感じ方も変わってくるものだ。

 『ノルウェイの森』移行を読み直すことは考えていない。村上春樹の性描写が、僕はあまり好きではないからだ。『ダンス・ダンス・ダンス』終盤の性描写も少し苦手だった。行為を丁寧に描写しているのだが、感情の機微が感じられない。マネキンのセックスを眺めているような気持ちになってしまうのだ。その点、初期村上春樹作品にはほぼ性描写が出てこない。僕にはその方がありがたい。

 さて、ついに読む本がなくなってしまった。今月はお金に余裕がない。貯蓄も尽きた。当面節約して生活しなくてはならないが、本がない生活も淋しいものだ。図書館で本を借りるのは好きじゃない。ゆっくり貯蓄しながら、余裕ができたら、また本が買えると嬉しいな。

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