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風になりたい

もし生まれ変われるのなら、そこに自然に漂う風になりたい。そんなことを考える秋の始まり。

9月に入ったら急に秋でびっくりしています

久しぶりの授業。久しぶりに友達に会って、休憩時間や帰り道、たくさん話す。
とても嬉しいのだけれど、どこか苦しく、どこがもどかしい。それはいつも自分が緊張していて、うまく話せないからだ。
緊張している時は「意識」がよく働く。言葉を発する前に頭の中で浮かべて、適切なトーンやタイミングを緻密に考えながら、言葉をこねくり回して形を整え、固めきってからやっと相手に見せる。
そうして発せられた言葉が、相手にとって堅苦しく不自然で、あまり心地のいいものではないことくらい分かっている。だけれど自分だってこんな風に話したくて話しているわけではない。むしろそんな自分をやめたくてやめたくて必死なのに、必死になればなるほどまた緊張が生まれ、そうなってしまうのだ。

毎日は至るところに散りばめられた小さな緊張との戦いでいっぱいだ。
普通なら、何気ない友達とのお喋り。友達とは出会って数ヶ月経っていて、何度も同じ時間を過ごし何度も話をしている。きっと緊張するような場面ではない。だけれど、毎回言葉を発することに緊張している自分がいる。
バイトでの簡単な作業。なんてことないことだとは分かっているはずなのに、なんてことないことだと思えば思うほど、自然な動きが出来ずに手こずる。
歩く時、机の上に準備物を出す時、プリントを回す時、先生が近づいてきた時、人とすれ違う時、誰かの前でご飯を食べる時。
この小さな緊張が、変わらない毎日の中で異様な負担を生み出していることにはとっくに気付いていた。

私は大体の人が絶対に緊張するだろうというところでもしっかり緊張するのだが、普通緊張するようなところではない、あくまでも日常的なことでこそ、まさに手に汗を握るような感覚になる。
ごくごく当たり前な、普通に考えれば緊張の字すら思い浮かばないような場面で、もし緊張して普通に振る舞えなかったら。変なやつだと思われて、遠ざかられるのではないか。そういう心配があるからだ。その心配が災いして結局失敗しているのだが。

厄介なのはこれが対人の場面においてだけではなく、自分一人の空間でも起こりうるということだ。

楽しみにしていた映画を見たり音楽を聴いたりする時、あるいは読んでいる本がとても面白くて「これは自分の中でとてもいい瞬間になるのではないか」、そういうものを感じた時。
感動を待ち構える自分の緊張によって、きっとあの日の自分なら物語の中まで入り込んで我も忘れて涙したような最高の瞬間が、どこか味気ないものになってしまう。時には自分のそういった「意識」が気になって気になって、集中できずに読んだ後内容をうまく思い出せないこともある。

緊張という感情を憎む場面はまだあり、それが歌う時だ。
小さい頃から歌うことが好きで本当によく歌っていた。その時は今ほど上手いも下手も考えず、ただ「大きな口を開けて大きな声で」。
ただ歌うことを楽しんでいたなと本当に思う。
今は昔より遥かに歌うことへの好きを認識していて歌うことを愛しているはずなのに、昔以上に楽しいかと聞かれると、よく分からない。
上手く歌いたくて、楽しく歌えても上手くはなかった自分に失望したくなくて、上手く歌って”最高の瞬間”にしたくて、その緊張が逆に力みに繋がり、上手く声を発せなくなってしまう。

緊張のせいで、この意識のせいで、最高な瞬間を最高にできない。こうなってしまった自分のことを思うと、いつか感じられたような感動に出会えることは二度とないのかもしれないと考えて、これからその状態でずっと生きていくということに絶望すら覚える時がある。

こういう自分になってから一番悲しかったのは、悲しいのは、「仲良くなってみたい人と仲良くするきっかけを自ら手放す」ようになったことだった。

以前自分がとても憧れている人とお会いできるタイミングがあった。その時はあまりメンタルがよろしくなかったこともあり、「もし会って居心地の悪さを感じさせてしまって、もう二度と会おうという話にならなかったらどうしよう」。そういう不安があまりにも大きくなってしまい、絶好の機会を自ら手放してしまった。行っておくんだったという気持ちもあれば、今も同じ感情を持ってはいるので、それで良かったという気持ちもある。

気になる人がいてもその後の虚しさを想像して関わることすら諦めてしまう、それもその虚しさは想像の産物ではなく、「こんな不安は気のせいで案外やってみれば上手くいくのでは?」と考えて何度か行動してみた結果、実際に感じたものでもあった。「どうせこんな自分だから進んでみても仲良くなれず悲しい想いをするだけ」。だから最近は、嬉しいチャンスも横目に流してしまうばかりになった。

今これを書いていてもこのnoteが上手く書けて上手く吐き出せたらいい瞬間になるかもしれない、と緊張してきて結局自分の思ったようには書けていないし、親しい友達と遊ぶ時でもこの思い出が最高になってほしい、という意識が自分を緊張させ100%で楽しめない。いつからか家族と話す時でも緊張するようになってしまった。
そんなこんなでここ数年、本当の”感動”というもの、本当の喜びや怒りや悲しみや楽しさを感じる瞬間にほとんど出会えていない気がする。

自然な自分でいられれば、もっと人と仲良くなれることも、もっと色んなことに感動できるのだろうということも分かっている。けれど自然さが意識的に生まれるはずもない。

だから。

だから、私は風になりたい。

自由にそこに漂って、緊張せず、人を緊張させず、心地良さを与える風に。
ただ空気の感じるまま、楽しげに踊る風に。

今日は、昨日よりは気楽に友達と話せた気がした。少しだけ、自分の足取りが軽かった。

読んで下さってありがとうございました‪‪☽𓂃 𓈒𓏸◌‬

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