愚行がもたらす数多の癒しに存分に甘えてきた。それが明日明後日、それから先の自分自身を脅かすとしても、都度の甘美な効果に抗えず、もう何年もその虜になってきた。愚行も年月を経るとそれが当たり前の行為になっていて、愚行を愚行と捉えない麻痺まで起こり始めて、これはもう一種病であるな、と思う。 ふと我に返る瞬間、その多くは部屋の灯りを消してベッドに入って目を閉じた時に訪れるのだけれど、愚行に甘んじて失ってきた物事の大きさとその深さに震え上がる。もう寝るなんて悠長なことはしてはいられな
“見る”ということはとても難しい。いつでも見たつもりのままで、実際”見る”ことの出来た物事は本当に少ない。刻一刻と表情や姿を変える物事の、あの面、この面、後ろ側、上、下、を見逃さないように”見る”のはもしかしたら、不可能なことなのかもしれない。 起きている間は、常に何か目に入っているので、それを”見る”としていることも多いけれど、それはただ単に目に何かが映っているだけのこと、”見る”とは程遠い。”見る”とは覚悟に他ならないし、しっかりと意識していないと出来ない事であるとつく
自分の身体に蛇口があったら良いのにな、とよく思う。捻ればいつでも中身を流し出せるように専用の蛇口があれば良いのに。 人はそれぞれみんな、流し出し方を考える。スポーツをしてみたり、旅をしてみたり、美味しいものを食べたり、読書をしてみたり、方法を使い分けて、都度都度身体から流し出す。それぞれの見えない蛇口を使って。 蛇口を捻ってもうまく流れ出ない事も多い。それはきっとみんなが日々経験していることで、昨日はあんなにスムーズに捻れた蛇口も、今日は錆び付いて微動だにしない。中身が滞
真面目に受験生をしていた頃ぶりに使い終わった鉛筆が、なんだか愛おしくて捨てられない。鉛筆ホルダーにも付けることが出来ない長さになって、もちろん普通に握ることも出来ない長さの鉛筆を、掌の上でコロコロ転がしてみたり、指先で弄んだりしている。 あの頃は、作る目的がたった一つだけでシンプルだった。他の受験生に比べたら、のらりくらりとしていた方なのは明らかだけれど、それでも毎日のように何か描いていて、良くも悪くも、それはたった一つのゴールを目指すためだけの創作だった。 時が経って、
それは僕自身を透明にしてくれるかどうか、全てそれらに照らし合わせて、ここ数日は選んでいる。 本を読む、展覧会を観る、散歩をする、針を進める。日々のそれらの最中、何かを満たすというよりは、内からサラサラと流し出していくような気がする時がある。ガラスの器の中身を空けていくようなイメージで、どんどん何も無くなっていく。 特に針を進める最中にそれを感じる事が多い。実はそう長くは続かない集中力で、数十分一区切りの運針の途中、僕の中身はどんどん流れ出て、仕上がる頃には空になる。空にな