僕が文章を書く理由。
漸く夏の暑さも若干の衰えを見せ始め、涼しさが嬉しいはずなのに何故か物寂しいような妙な気分になる今日この頃。僕はいつものようにシリアルを牛乳に浸しただけの適当な朝食を済ませると、パソコンと学生証をリュックに投げ込む。誰もいない部屋に行ってきますと告げて駐輪場に降り、愛用のクロスバイクに跨ってペダルを踏んだ。行く先は某大学図書館である。
僕は今年の春から京都の大学生なのだが、入学早々何もやる気が出ない日々が続いていた。体育会系の部活に入ったはいいがコロナの所為でまともな練習も出来ず、授業はというと六割がたオンラインでだらだらと行われる。受験さえ終われば夢のような生活が待っている、と夢想していた己の浅慮に片腹痛くなる。しかし未だに受験前に死ぬほど焦るという夢を入学後にたまに見るくらいには受験をプレッシャーに感じていて、その反動ゆえの無気力だったのだと勝手に分析している。
話を戻して、図書館に着いた所から進めよう。大学の附属図書館棟は荘厳な三階建てで、蔵書は町の図書館とは比べ物にならないほど多い。その多くが学術書で、中にはおそらく誰も使っていないであろう参考書がある一方で、多くの人に読まれ擦り切れてボロボロになった古書もある。しかし今日の僕の目的はそれらではないーー冷房の効いた静かな環境である。そのなかでも比較的周りに人が少ない静かな席に着き、ノートパソコンを開く。そして何をするかというと、noteに投稿する文章を書くのである。
僕がこのメディアを初めて知ったのは大学入学後のことであった。高校の時の友人が「サークルのようなものを作ってメンバーがそれぞれnoteに記事を投稿してみないか」と誘ってきたのだ。最初は乗り気でなかったものの何となく安請け合いをして、そのサークルに入った。これが今の「冷蔵庫」である。暫くは書く気がせずに(前述の通り無気力であったため)放置していたのだが、次第にある不安が脳裏に浮かんで消えなくなったーー「自分は果たして客観的価値のあるものを生み出すことができないのではないだろうか?」と。それなりに考えをもって生きているつもりでいた僕にとって、その疑問はアイデンティティを根本から揺るがしうる謂わば「致死性」のようなものを孕んでいた。何も書けないのならば何も考えていないのと同じではないか。そういう焦りに駆られてからノートパソコンを開くまでにそんなに時間はかからなかった。値段がつけられるような価値がなくとも良い、それを読んだ誰かの人生が少しでも豊かになるような、そんな文章を書くのだ。
こういう動機で今、僕は文章を書いている。(Kyojin)
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