2月記 鼻先がツンとする
一番最初に2月のしんどい話を片付ける。
不意の会話の流れで、人の発言にカチンとくることがあって、怒りの反射速度が遅いわたしは怒り損ねてしまった。
今までは怒らなくても、わたしのことを大切に思ってくれる友人が代わりに怒ってくれていた。
その気持ちが嬉しかったし、それで満足だった。
でも、ここ数年少しずつ、自分のために怒れる人間になりたいと思うようになった。
自分のために怒れないのは自信がないからだ。
自分もまた尊重されるべき人間の1人で、わたしの尊厳を守る権利があると主張して良いのか、自信がない。
教育学を学んだ知識から、理由はわかっている。
感情のままに殴られ、搾取されながら育ったため、自分は大切な存在だという実感が薄い。
大切だと理解する機会は逃していたとしても、おそらく多分、みんな、自分で自分を大切にしていいはず。
自分は尊重されるべきものだと信じ、自分の尊厳を踏みにじられた時には怒っていい、はず。
プロセスを伴わない、憧れのような真似っこなのだけれど、変わりたい。
理由はそれだけではなくて、わたしが理不尽に対して受け入れてしまうことで、わたし以外の人への理不尽への許容になってしまうのだと気付かされることがあった。
仕方がないで片付けてしまうことで、大切な人の自衛の壁を侵してしまう。
内容と場合によるというのは踏まえた上で、共感できる「相手がおかしなことをしている。それは受け入れるべきではない。」という自衛の壁を私はちゃんと肯定したい。
以上の理由により、今回はちゃんと怒るぞと息まいて、友人に今回の件について相談したら、「きょむは声が優しく、大体のことをあはは〜って笑って受け入れてしまうので舐められるのだ」と助言をくれた。
わたしが笑うのは共に時間を過ごしてくれる人と楽しく過ごしたいからであって、危害を及ぼしてもいいですよという意味合いは一切ないのだけど。
それでも、経験上知っている。
人は一度サンドバッグだと判断した人間に対して、己の加虐心であったり、対等であるという理性のコントロールが効かなくなってしまうのだろう。
なら、その手前でしっかり怒りたい。
サンドバッグではないと伝えたい。
見たくない、人の一面を見る前に。
というわけで結構ピリピリしてる2月末を過ごしてます。早く荷を下ろしたい。
正直、しっかりじっくり自分の怒りと向き合ってるうちに、ぶつけるタイミングを完全に逃しつつある。もうだめだ。
はあ。
というわけで切り替えて、2月振り返り。
ビッグイベントはBUMP OF CHICKENのライブ。友人と久々に過ごせた時間も合わせて、得るものが多い時間になったので、別記事があるので割愛。
嬉しかったこともあって、友人が増えたと思える出来事に恵まれた。
長い付き合いの中で知人だった人が、縁があって友人になった。嬉しかった。
孤独だと思っていた去年からすると、かなり風向きはいいように思う。
他にもいろいろあったような気もするけど、
やっぱりもう疲れちゃった。
そろそろ梅が咲くね。
わたしは梅の花が、木が好きです。
切り落とされることで凝縮される生命が力強くて好き。
3月は切り落とした先に残る大切なもののためにエネルギーを使えたらいいな。
お疲れ様。
おやすみ。
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