【エッセイ】記憶〜再構築される世界〜
記憶って面白い。脳はメモリではない。コンピュータのようにデータをそのまま保存して引っ張り出してくれるわけではない。何かを思い出すたびに、経験した出来事を再構成して、書き換えているらしい。
だから私のなかにある想い出は、いまのわたしが再構成した虚構というわけだ。そうだとすると、大事な想い出ほど思い出さない方がいいのかもしれない。
とにかく感じた「その瞬間に」可能な限り近接した時期に、見たモノ、感じたコトを詩にして閉じ込めるという作業をするのは、記憶の書き換えをできる限りなくすのに有効な方法なのかもしれない。
それでも、そこには起きた出来事を思い出し、解釈する自分がすでにいるわけで、出力された文字は、もはや実際に起きた出来事とは異なっている。
だから自分には「今」しかない。しかし、今はすぐに過去となり存在しなくなる。なのに、思考する自分は継続する。そして歪んだ世界を私自身に押し付けてくるのだ。「今」ですら客観的なものとしては存在し得ない。どこまでも「わたし」を通さなければ解釈されない世界に、私は辟易とした。
こうしてみると、他人を理解するなんてどだい不可能な話しだと思えてくる。なぜなら、私たちが捉えている世界は、何もかもが主観で埋め尽くされているからだ。
それでもあなたを知りたいと思うのは、ある種のあがきだ。辟易とした自分の世界をぶち壊して、広げたかったのだと思う。あるいは、退屈で苦痛な世界から逃げ出したかったのかもしれない。
私は、一度、世界を見る枠組みを破壊し、再構築しようとしたことがある。どうしようもないくらいに自分の世界が小さくて、みみっちくて、しょうもなかったからだ。みんな、自分のことが大好きだという。だが、あの頃の私は、わたしが大嫌いだった。心底嫌になったので自分を辞めることにした。
その意味を、あの頃、明確に理解していたのかは分からない。だけど確かにあのとき、私は、中学生の頃から、詩や日記的なモノを書き溜めてきたノートをすべて捨てた。ノートは、忌むべきわたしという自我の塊のように思えたのだ。それは存在してはならないものだった。後ろ髪を引かれもしたが、いらなくなった洋服と一緒にノートも捨てた。弱くて、くだらない自意識を破壊したくて仕方なかった。
それ以来、noteで再び書き始めるまで、自分の感情を書き留めることを、ほとんど封印していた。
「自分を見つめても何も出てこない」
「あるのは忌々しいちっぽけな自分だけだ」
「外を、他者を見よ」
いまあれからちょうど10年が経とうとしている。
世界で起きていることは、言ってしまえば、相変わらずくそだ。人間はいつまで経っても厄介な生き物だ。それは事実だ。
だけど、私には、不思議とあの頃よりも随分と世界が美しく見える。他者の視点から世界を眺めてみることは、自分の枠組みの打破であり、肥大化した自己を小さくすることでもあった。それは世界の見方を変え、わたしをも変えてしまった。
note で再び書き始めた理由は、今の枠組みでみる世界は、あの頃よりもずっと美しく見えるようになったからなのかもしれない。人も景色も情景も、もっとうまく捉えることができればと願う。いまや詩は、わたしを補足するためのものではなく、稚拙ながらも世界を了解し、世界と繋がるための手段となっている。そんな気がしている。