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「思う」と「考える」について

「自分は考えすぎてしまう性格だから」「常に何かしら考えているから疲れてしまう」「何も考えてないやつら」

など、考えることを性格と結びつけて捉えるような言い回しが蔓延っているいるように感じられるのだが、この意味を理解したことはない。理解できないと蔑んでいるのではなく、日常で使われる表現の意味を解明したいという意味で、常に疑問が付きまとうところである。

考えることを性格に結びつけるセリフを聞く度に自己言及して回想し、自分はいかに何を考えているのか、記憶を巡りはするのだが、そんな時にいつも思うのが(「思う」と使ってしまっているが)、「〜だと思う」と言うことと、「〜だと考える」と言うことに果たして明確な差異があるのかということだ。

「思う」「考える」は表記の通り日本語であり、行動や思考を分節化するものとしての言語を考えてみてもやはり日本語という枠組みは設定するべきなのだが、他者を通じて自己を再認識するように、比較言語的な考察も試みてみたい。問題関心を述べてきた上で、少々偏重かもしれないがベルクソンなんかを参考にしていきたい。

ここでベルクソンに言及する理由は、単に個人的に馴染みあるということもあるのだが、彼は哲学者でありながら「直観」という言葉を使ったことが大きい。哲学者と言えば論理的であり科学的であって、反射的に普遍へ到達するようなイメージはないだろう。そのような世界で「(哲学的)直観」を重視したことがヒントになると考えた。

まずは「思う」と「考える」の日常的な使い分けを思い起こしてみる。「〜だと考える」という表現は堅苦しい雰囲気が出て、特に友人との会話にはあまり出てこない。他人の発言に同意する時、「私もそう思う」とは言うが、「私もそう考える」と発言することは少ない。また、誘いの表現「〜と考えてみよう」とは言うが、「〜と思ってみよう」とはあまり言えない。さらに会話の中ではなく、レポートを作成する時、すなわち厳密な表現が好まれる場合は、「〜だと思う」ではなく「〜だと考える」と表記することを促されている。

上記の限りでは、「考える」は知性を伴った論理的判断」、「思う」は心的な感触という簡単な分け方がなされることは理解できる。しかし一方で、あれこれと論理的組み立てがなされたような結果について、「〜と思った」という音声的表現が間違っているとは言えない。

ここで活用に注目してみる。「思った」「考えた」、「思う」「考える」は、どちらも一人称単数で、動作主体は発話者にある。この場合はどちらを使っても特に問題はない。また、「〜と考えられる」と「〜と思われる」は両方使われる表現で、対象目的を引き離す。軸としての主体は内容の方にあり、それ(内容としての対象)は、考えられることもできるし思われることもできる。

しかし、事物について「〜と考えてみよう」と言うことはできるが、「〜と思ってみよう」とは言い辛い。ここで「思う」の方に心的な感触のニュアンスが含まれていることの差が出てくるのか。仮に「考える」ことが筋道立てた論理的な判断だけであるのであれば、非人称的であるので選別が行われない。逆に「思う」心的感触であれば、人称的なので強いることができない。

では一人称での「考えた」と「思う」はなぜ使い分けし辛いのだろうか。

ベルクソンは『物質と記憶』においてイマージュ(あらゆる物質的なものなど。詳しくは本書にて)の知覚に対する想起の働き方について、その知覚を覆うようにして様々な想起が複層的に知覚を構成していくと図式を提示しながら論じた。その知覚(物質)が、想起が膨らむのと同時に知覚も膨らんでいく。同じものの新たな諸相が開かれていくというのだ。その時間性はそこで明記されてはいないが、知識が増えるごとにものの見方が変わるという定型的なことも含意していれば、量化されない全くの質としての時間、つまりそのものと対峙した時に対峙の仕方によって異なる諸相の知覚も含まれていると解釈される。

このことは鷲田清一『「聴く」ことの力』においても、ベルクソンに言及した小林秀雄の言葉を借りて論じられている。

「かんはぶ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。…私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とは「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は身であり、「かふ」は交うであると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。(小林秀雄「考えるということ」鷲田清一『「聴く」ことの力』p.21)

孫引きとなってしまったが、ここで言われているのは、先述した「考える」と「思う」の論理的判断/心的感触という図式が間違っていることが示されている。「考える」ことにすでに心的感触のようなものが含まれており、「考えるの」も同様に人称的でもあるということである。しかしこれは、考えることや思うことが全く共有不可能ということを意味しないことは指摘しておきたい。

現象学を引っ張ってくるとすると、フッサールがすでに意味経験について論じている。それがそれであるということはすでにそれであるという意味を持って表れているのであり、大抵の事物を知覚する時、主体によって意識的であっても無意識的であっても何らかの意味を伴って経験しているということだ。これを「考える」「思う」に適用できるとすれば、考えるその源泉にも記憶が混入しており、思うことも同様であると言えるのではないだろうか。

同様に「思考」「思慮」「熟考」などの熟語を考えてみる。「思慮」は「慮る」ことを意味するものであるが、思慮する場合には慮る主体が必ず必要である。これは「熟考」が意味するものよりも必要である。「思慮」は人が人を気遣うことが含まれている。気遣うことは「気」を「遣」わなければならないのであり、「気」を「遣」うからこそ可能である。つまり誰か/何かを気遣う場合には、自らの気を差し向けなければならない。だからといって気だけが思慮の目的となるわけではなく、冷静な論理的判断を含むのである。気が何かという問題はさておき、「思考」や「熟考」の場合には気を遣うことは必須ではないが、これまで論じてきたようにむかえる態度は必要なのである。

ここまでで、「思う」「考える」が心的感触/論理的判断の二項図式に留まらないことは示すことができたように思う。人称的グラデーションの中に、それぞれが極として存在するのではなく、可変的なものとして捉えられるのではないだろうか。

疲れたのでさらなる発展はまた次回に。

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