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140. スープになる覚悟はあるか

 「子どもを置いてはなかなか遊びに行けない。だから子どもがいる同士で遊びに行く。そうするとどうしても子ども中心になる。それで独身の友達は誘いづらくて、そのうち疎遠になるんだよね」
 上司の言葉を聞いて、先輩と私はウワワーと慌てた。まあ慌てたところでどうしようもない。本質は「家庭を持てるかどうか」ではない。
 家庭を持ったところでバスタブで一人、ドロドロのスープになる人はなるだろう。結婚しなくても一人暮らしでも、スープにならない人はならない。馬鹿げた話かもしれないが、この2種類しかいないと本気で思っている。

 人が好きで、人付き合いが大嫌い。
 私も、周りの友人たちも概してこれである。距離があるか、もしくは具体的な顔がない人間は心地良い。だからドキュメンタリーや私小説、エッセイを好む。人の考え方、感じ方に強く興味を示す。フィクションの中の人間関係に一喜一憂する。あるいは『東京の生活史』のような匿名性を愛して、勘違いする。
 大抵、気の合う同士でしか話したがらない。挨拶すら億劫でたまらない。興味のあるふりも満足にできないから雑談を避けたがる。聞いていないから質問ができない。大人数の飲み会は極力行かない。
 なんてワガママな奴ばかりだ。私もそうだよ。

 一人でいれば気楽なもので、孤独感も劣等感も覚えずに済む。相手から見た、あるいは他者と比べた自分の滑稽な姿をわざわざ認識させられることもない。疲れないのは当たり前である。

 30にもなろうとしている中、逃げられるうちは逃げ回って、いざとなったらどちらにも捕まる覚悟が自分にはあると思っていた。孤独と煩わしさの双方に捕まる覚悟。ドロドロのスープか、ひたすらに面倒な社交場で斃れるか。
 「逃げられるうち」というのは、与えられた人間関係が続くうち、という意味である。

 よく、学校教育の「みんな仲良く」なんて馬鹿げている、と言う人がいる。「馬の合わない奴とは無理に仲良くする必要はない」。言いたいことは分かるが、私は全くあれが馬鹿げているとは思えない。決して軽んじてはならない教えである。実践できるかどうかはさておき、人生の早い段階で「みんな仲良く」の概念がインプットされなければ、平均寿命はうんと縮まるだろう。

 人間は脆い。体の内も外もめちゃくちゃに脆い。電車やバスに偶然乗り合わせたような、うっすら不愉快な他者に快く思われるかどうかで先行きが、もしかすると生死が変わることさえある。少なからずある。
 なんとなく疎遠になっていたあの人に連絡できますか。自分から遊びに誘えますか。複数の人のことを、よく知っていると言えますか。詰む前に相談ができますか。助けを求められますか。
 私はたぶんできない。そしてスープになる。覚悟は今のところない。湯に浸かる習慣のないことだけがほんの少しの安心材料である。大家を困らせるのは心苦しい。

 友人たちは皆覚悟があったりなかったりするんだろうか。俺はスープになるぜって人。今回のこれは、ほぼ宛て書きのようなものである。あなたのことです。今度こっそり教えてね。
 みんな仲良く。

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