141. 物語は終わる、生活は続く
今年もつつがなく10月を迎えることができて本当にうれしく思う。日本にはもう二季しかないような気配もするが、やはり10月は幸福な季節。特に何かあるわけではない。ただ金木犀が香り、梨や葡萄が熟し、親しい友人が誕生日を迎え、ビートルズの歌が、この風の中ではとびきり伸びやかに響く気がする。
生活は続く。何巡も、何巡も、幸も不幸も、それはそれとして見送っていく他ない。間違いなく生活は続く。もし生活は続く、が下の句だとすれば上の句はきっと「物語は終わる」だろう。
フィクションのキャラクターたちにあって、私たちにあり得ないもの。それは大団円である。熱い友情も暗い裏切りも、燃える恋も、感動的な再会も、目を見張る成長も、辛い訣別も、私たちにはいつだってあり得る。超能力だって、似たようなことができる人はそれなりにいる。ただ誰もが平等に手に入れられないのは大団円そのもの。生活は時に醜く、惨めなまま続く。
体も魂も引き換えにして繰り出した大技を、敵が難なくかわして犬死にする。腕や足がとれる。心底慕っていた人がラスボスでもなく、ただのくだらない敵だったと気付かされる。一文なしになる。それでも生活は続く。物語は終わる。ベタ塗りだろうが、誤字だらけだろうが、私たちは震える指でページを繰る他ない。
しかし、だからこそ問題提起のない露悪を許してはならないといつも思う。
宮崎駿の幾度目かの引退会見での言葉である。
私は、これは何もクリエイターに限ったことではないと思う。大人の責任である。子どもを持つ人も、持たない人も、コンテンツを創る人も伝える人も、人のために自分のために働く人、生きている私たちみんなの責任である。
残酷なものを見せる見せないではない。いずれどこかで見せつけられる。格差の浸透圧にもがきながら、他者の脅威に怯えながら、誰に、何に救われて何を守ってきたのか、どんな美しいものを見てきたのか。暗く寒い街角で誰にも見向きもされず、小さなマッチ箱の中から、暖かで明るい夢を引きずり出せる魔法を伝えなければならない。子どもたちに、あるいはかつて子どもだった人たちに。
何のために生きるかを伝える術も、伝える必要もないように思う。ただ、こんな素敵なこともあったんだと、楽しみにしていることがあるんだ、と95%のきつい現実に5%の希望を忍び込ませてほしかった。
いつか「犬死にする」ことを理解して、大人になって初めて、寂しく思った。
大団円がないことよりも、ハッピーエンドを一切望めなかった大人たちのことを思った。
尻を叩いて頬をつねって、腕を引っ張り上げてくれた大人たちのことを思った。
魔法はない。マッチはいずれ全て燃え尽きる。物語は終わる。生活は続く。みんなそれをどこかで知っている。その美しさを知っている。かじかんだ手を温め続ける。