写真を撮る (hhmmss-hhmmss, yyyymmdd-yyyymmdd)
↓は、↑についての断片的なノートです。
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昨年の冬、鬱状態が続いたときに、認知行動療法アプリというものをスマートフォンに入れてみた。今日の気分(よい、ふつう、わるい、まあまあ…)と行動(早起きした、料理をした、買い物をした、仕事に行った、友達と話した…)のアイコンをタップして記録し、メモを記入し、最後に写真をアップロードする。最初はアイコンを数個タップするだけだったが、次第にメモも使うようになり、写真も入れるようになった。
意外と、写真を撮らない日があることに気がついた。同じことを繰り返す日々であれば、わざわざ写真を撮ることがない。朝ごはんも、通勤風景も、帰りのバスも、自分の部屋も、撮らない。撮るのは、飼っている犬がかわいいなと思った時くらいだったので、最初アプリに入れる写真は犬ばかりだった。1ヶ月2ヶ月と続けてみて、変な虫とか、友達と食べたご飯とか、もらったお花とか、夕焼けとか、作った料理とか、そういう写真が徐々に入っていった。
写真を撮るときのことを考えた。これまでのカメラロールを見ると、多いのは旅行とか、非日常の写真だった。その中にぽつぽつと、日常があった。かわいい、好き、変、きもい、やばい、すごい、綺麗、嬉しい。スマートフォンで写真を撮るのはあまりにも簡単で、そういう一瞬を私は特になんとも思わずに撮って、忘れ去って、半分くらいは2度と見返さない。家族にも恋人にも友達にも誰にも、見せることがない。
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クリスチャン・マークレーのthe clockという作品がある。古今東西の映画から、時計が映っているシーンのみを切り出し、それを24時間分繋げた映像作品だ。展示会場では実際の時刻と合わせて、映像が流れる。
映画館のようにソファが沢山並べられた広い空間で、この作品を見た。鑑賞者は好きに出入りができて、常に100人くらいはいそうだった。多くの人間が一箇所に集まって、時計の映像をただじっと見つめているのは、妙で可笑しかった。
ぼんやり眺めているとすごく時間が経っていて、今何時かなとふと思い、それは目の前の映像に流れていること、同じ時間が流れていたことに急に気づく。本当はばらばらに生きている私たちは、時計が示す公的な時間によって、なんとなく一緒に生きているような気がしている。今も。
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Google Photoが突然「6年前の思い出」などと題して、クラウドに保存された私の過去の写真を見せてくる。スマートフォンで撮った写真は、古さがよくわからない。6年前撮った写真も、昨日撮った写真も、同じくらい鮮やかで平凡である。今日のお昼ご飯だったかなこれは、みたいな、4年前の晩ごはんの写真が出てくる。時間が、折りたたまれている。
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あなたはたまに写真を撮って、そのほかは写真を撮らないで、時間を過ごしている。1日を暮らしている。断片的な一瞬の写真たちはしかし円環状に整列すると、あなたの1日を浮かび上がらせる。
起きていた、食べていた、歩いていた、誰かと一緒にいた。そのとき、写真を撮っていた。
ごはんを食べます