私は悟っていません。
『奇跡講座』を実践していくと
啓示という用語で説明されている
天国を垣間見る体験をすることがあります。
(そのようなことが
個人の人生のストーリーのシナリオに
ないのであれば
ないという人生もあるのでしょうが
私の周りの『奇跡講座』実践者の方々は
『奇跡講座』を学ぶ前から体験があった
とか
赦しがたいと思い込んでいる関係性の中で
赦しが進んだ時や
グループで行うクラスの最中や
シェアリング後などに体験されています)
一瞥体験
真我体験(これは微妙なところで、もしかしたら癒しが起こっているということをこの言葉で表現しているのかもしれません)
サマディ
などといわれたりして
是非!したい!という方がいると思います。
ただ、
『奇跡講座』の実践において
それは
起こることもあれば
起こらないこともあり
啓示は『奇跡講座』の目指すところではなく
(『奇跡講座』の目指すところは
言葉でいえば、「贖罪の達成」で
全く自我との同一化がなく
実相世界のみを観ることが出来る
心の状態=聖霊として生きている状態 です。
実相への最後の一歩は神からという比喩表現で
書かれていて
『奇跡講座』で教える範囲を超えている
と明確に書いてあります)
個人の誰かが啓示体験で
ワンネスを垣間見ることがあったとしても
それは、
この道でいいんだ、、、
というその個人の人の霊性の道に対して
実践に対して
励ましになる
ということ以上でも以下でもないと
ケン(ワプニク博士)はいいます。
私も、実際に、体験から、そう思います。
啓示体験や一瞥体験は
起こったその後に調子に乗って
もうわかっちゃったような勘違い
にもなりやすいのです。
私自身、そのことを理論的理解として
知っていた上で
一瞥体験が何度かあっているので
これも比喩ですが
アセンデッドマスターに応援されているような
安らかで温かな気持ちが
冷めきった後
また始まる自我との同一化にも
ガッカリはしますが
そういうものだとケンが言ってくれていたな
と、大きくUターンは
今のところ
しないでいれています。
ある方が
(一瞥体験されている方でプロフィールにもそれが強調されている方でした)
『奇跡講座』はもうわかった!
これをやっても人生における成功はないことも
わかった!
いつでもどんな時でも、お金を作り出せるようになりたいと思ったら『奇跡講座』が与えられた!
と思っていたけれど、そうはならない。
『奇跡講座』は、もういいから!と、
この世界での自己実現をまずは、するよ!
ケンは健全な自我を育ててから学びに来なさいと言っていたでしょう!
と、Uターンを起こし
引き寄せの法則
(自我の思考を使い
心理学的に導き出してわかる
目の前の人のニーズを
期待通りに満たすことで
(もちろんそこには利害関係があり
お互いに犠牲が伴う)
この二元の物理的世界の中での
個人の成功を現実化
(幻想の中に見える形態に具現化していくことが出来ると教え、その実践手法を教えている)
を、とても高尚であるように見える
『奇跡講座』の中の愛や光をまとったような形態で
やっていらっしゃいます。
(私は、その活動に
政府のシステムに
抗うものとしてのプロテスタント教会的な
思考を投影して見ていました。
キリスト教の大きな2つの流れである
カトリックと
それに抗うという意味のプロテスタント
という
どっちも、同じ、それぞれが
正しさを主張し合い
どんどんと分派していくのだな、、、と
投影して
私の思考の中にある社会システムへの怒りと抗いを
見ていたわけですから
外側には誰もおらず
私こそ、自我との同一化をしていたわけです)
ケン(ワプニク博士)解説での『奇跡講座』を
歪めて解釈していた
自分自身と
それを
わかりやすい形で
見せてくれていた投影相手の方には
心から感謝しています。
とにかく、ここからは
他者に依存せず
自分の都合の良いように解釈して
階梯の1番下でうろちょろしないように
と、肝に銘じています。
私自身も含めて
このようなプロセスを踏む方々は
多かったのではないか?と思いますが、
そのような解釈をしている方が
いるのはしょうがないことだと、加藤美代子さんも
咎めずに説明してくださっています。
間違った解釈に気づけたこと
軌道修正できたことに感謝して
ここまでに役立ったはしごを
これからも持っていくことは
今現在は、選択せず、
でも、ついつい、困った時の神頼みのように
「聖霊だったら?イエスだったら?」なんて
ふわふわとスピリチュアリズムなことを
考えている自分の習慣が出る時にも
自我と同一化せずに
咎めずに見ていくレッスンを
赦しの実践を、
私自身は、やっと、ここ最近続けているところです。