唯一の救い とは?

「世界を変えようとするのはやめて

(そもそも世界を変えることはできない)

世界に対するあなたの見方を変えなさい。

(もう一つ、全く今までとは別の方法で

この世界を見ることが

可能!です)」

その『奇跡講座』が自体が

全体を通してもたらしてくれている

深淵なる愛のメッセージと、

なぜ、そうなのか?ということを

まずは、知的理解として知った時からが、

私にとって

真の救いのスタートであり

真の自由自在のスタートであり、

真の献身のスタートだったし、

利他的行動にも見えるような(この世界には、他者は居ませんから、言葉通りにとると、誤謬が生じます。注意してくださいね)愛への帰還のスタートだった、

と思います。

そして、

私自身が『奇跡講座』のいうところの

赦しの実践を“真に”することを通してのみ、

普遍的な愛の体験をする度ごとに、

その心眼で見ることを選び直す体験そのものが、

言葉を超えた真の真理への理解へ

知っている状態へと

毎回、毎回、

「私は何も知らない」からこそ!

私たちをそこへ連れ帰ってくれているのだな、、、

と、実感しながら、

「私が癒される時、癒されるのは、個人の私ではない」

ということも実感しながら、

私たちは心(mind)であることを思い出す実践を

続けている道の途中です。

習慣的に

自動的に

自我の思考体系を選んだ状態でいる私たちは、

無意識のうちに、なんとか世界を変えようとして

必死ですよね?

しかも、不幸にも!?

私の努力のお陰で世界が変わったように見えたとするならば、

最悪の状態になっていきます。

私が世界を変えたわけじゃないし

仮に世界中から私が変えたように見える世界に対して

賞賛の嵐であった、としても

あなたがそのように世界を変えたという

出来事が

幻想のこの世界の中で

起こるようになっていたから起こっただけ、、、

だとしたら、どうでしょう?

それで

あなたが起こしたように見える世界の変化は

本当に、過去の歴史上の何かよりも、

より良くなったのでしょうか?

世界は、良いでも悪いでもいいけれど、どういう風にかは、変わったのでしょうか?

“塞翁が馬”

今時点ではなんとも言えないというのが

本当のところではないでしょうか?

世界に世間が認めるような変化を起こしたとしても

または、起こさなかったとしても

あなたの周りの状況だったり、

人間関係をしていく登場人物だったり、

環境だったりが、変わろうとも、

よくよく見ると

以前と全く変わらないな、、、

どれも同じだな、、、

どれも同じく欠乏の法則から作られた世界のバージョン違いなだけだな、、、

という見方をするならば、

じゃあ、、、

私たちに、幸せになるための「真の救い」は

全くもって、ないのか?

と、

文句のひとつも言いたくなるところですが、、、w

結論から言うと、一つだけ、方法が、ある。

あります。

「どう見るか?」「どう考えるか?」は

いつだって、どこでだって

今この瞬間に

自由自在に、変えることができる。

ただし、それは、善悪の判断を変える

価値判断を止める

というこの世界のレベルの話しで終わりでは

本当は、ない。

私たちには、まだ、私たちが知らない

記憶喪失並みに忘れてしまっている

もう一つの見方をできるこの世界のものではない

選択肢がある。

「この世界の住人ではない視点から観る方法」

がある。

そんな視座から、“真に”見てみたくありませんか?

『奇跡講座』では、

それを、イエス、聖霊、(正しい心の状態の)内なる教師とともにみると表現します。

その見方を使ってみることを習慣化するための

訓練方法が、赦しの実践だとも言えます。

それには、『奇跡講座』のいう

心(mind)という概念を

まずは知的な理解で

今まで私たちが習慣的に考えていた心というものの概念とは別の概念のものである、と知る必要がある。

(↑まずは、知的理解を深める、ということです。

それだけで、終わり、ではありません。

これは、『奇跡講座』そのものが理論よりも実践、そして、普遍的な神学は無理だけども、普遍的な体験は可能であるばかりか、必要だと、いっていますし

ケン(ワプニク博士)がとても強調していることですが、、、

「それ、知ってるよ!」それだけで終わってしまっている、わかった気になってしまっていて

全く実践してない『奇跡講座』学習者が

たくさんいることは、

自戒の念も込めて、ここに記しておきます。)

『奇跡講座』がいうところの

その心とは、「たった一つの心(一なる心)」のことであり

断片化された私達一人ひとりの個々の心のことではない。

私達一人ひとりの心というものは、究極に言うと、頭脳です。(肉体の一部として捉えられています)

一方で、

心眼(ヴィジョン vision)で見る、とは

この世界の外側から(この世界の時間や空間とは全く関係のない時空を超えた視点から)見ることであり

この世界の夢を作った張本人である

「夢を見ているもの」の視点から

微笑みと慈愛を浮かべながら

平安と共にこの世界を見ること、です。

じゃあ、また、最初に戻ると

私たちは、普段は、普通に、自動的に、何を使って、何を見て、何をしているのか?

私たちは、「自我と同一化」して

肉眼を使って、「夢の主人公」になりきり、

つまり、「夢の主人公」と自分を同一化して、五感の窓のひとつの肉眼を使って、この世界を見て、感じ、様々な知覚を自ら望んで経験したくて、望んだ通りに、経験している。知覚している。

そのようなことをしている自分を

咎めと裁きの肉眼の目で観るのではなく、

聖霊とともに微笑みながら観る訓練とはいえども

まず、私たちにできる唯一の救いの作業は

今、まさに、咎めと裁きの肉眼の目で

この世界を見ていることに気づき

そのことを自分自身に許可をするところから、、、

なのです。

咎めないようにしよう!

裁かないようにしよう!

愛そう!

慈愛の眼でみよう!

聖霊とともに見よう!

神聖な私でいよう!

親切な私でいよう!

としていく道ではない(というより、そんなことができるのならば、もうやれています)

ということを肝に銘じて

逆側からたどっていく、、、

そんな実践の道が

唯一の救いの道のひとつに、必ず、なります。

ある程度の理論がわかってきた方は

Just do it ! 

是非とも、体験していただきながら

習得していただきたいな!と思います。

今の自分に必要だな、、、

と思うならば、

「個人セッション」を通して

あなたの赦しの実践を

心眼(vision)でみることの体験への共同作業を

全身全霊で、させていただきます。

ともに、階梯を登っていきましょう。


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