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「自分は間違っていない!こと」と「真に幸せであること」は、究極的に、どちらか一方しか選べない

心理学的に、私たちは、基本的に、無意識のうちに、デフォルトで、「自我」として生きることには、大いに意味がある、と思っています。

この世界は、目的を持った幻想であると、『奇跡講座』は言いますが、それ自体は、そういうものなのだということであり、個別性(個性)特別性、それは、なんの問題でもないのです。ただ、それを深刻に捉えている時、微笑みを浮かべて見れない時、問題意識が生まれ、内的な葛藤が生じます。

自分の常識は正しい、間違っていない、と主張することは、悪いことではないのですが、いずれは、誰もが、自分自身が正しいと感じている意味や理由、常識やルールの根拠について、全ての価値観を疑うこと、全てのこだわりを疑うこと、全てを白紙に戻すことが原因のレベルで必要になる場面は、遅かれ早かれ、それぞれの人が、真の意味で心行き詰まるタイミングで、必ず、来ます。(その時は、今世ですらない場合もありますが、それすら、遅すぎも早すぎもしませんし、今世で、今、このようなことに興味を持っている人に向けて、書き進めていきます)

「自我と同一化」している心のレベルの「神との分離をした神の子」の私(この私という概念も、私をどう認識しているのか?私は私をなんだと思っているのか?ということに言及すると、なかなか言葉で説明することは難しいことで、体験的な理解が必要ですが、今のところ、シンプルに、私というのを、肉体としての私とするのか?霊である真の自己、真の愛そのものである自己、愛を持っている自己とするのか?二者択一の選択を出来る部分の「決断をするもの」としての私)が、間違った教師としての「自我」を自分だと信じているのか?それとも、正しい教師「聖霊」「イエス」を自分だと信じてるのか?それだけが唯一の問題であることに気づきます。

自我は、攻撃的な思考体系そのもの。除外や序列や分離の思考。

聖霊は、全てを例外なく包含して愛する思考体系そのもの。愛そのもの。全てを包含するワンネスへと還る前の状態の想念。

「私」は、「自我と同一化」している今、それ(攻撃的な思考)がデフォルトであるなんて、絶望と行き詰まりしかない、、、と、いつか、なぜか、ふっと、気づきます。

でも、その自覚は、同時に、真には「救済の始まり」「苦しみの夢・一切皆苦の幻想からの解脱のスタート地点」でもあります。

つまり、真に絶望を感じて、真に行き詰まるならば、全く別の道を求める転機・ターニングポイントだといえます。

ならば、私達は、自分自身そのものだと思っている「自我との同一化」をすることが、いかに切羽詰まるほどに行き詰まる状態の感情を体験する事になるのか?その外的状況の映像、幻想に対して、心が苦しくて、痛くて、辛くて堪らなくなり、、、それ(実はその苦痛・葛藤の本質は、原初の間違いとされる「神との分離を信じた心」が原因で、間違って信じた怒れる神、罰を与える神が復讐してくるという妄想ですが、その実感は今はなくて当然ですので、重要な基本の部分ですが、ここでは割愛します)を感じ尽くし、

今、まさに状況が最悪に悪化していることを実感することで

『奇跡講座』が誕生することになった際に、1人のある心理学者が

「あなた方の攻撃的な態度、反抗的な態度にはうんざりだ!」と行き詰まると同時に

「別の道があるはずだ!」と結論づいた際の心の状態と、全く同じ想いになる時が来ます。

それが、真の探求、真実の探求の始まり、その別の道を見つける決断のスタートとなります。

正しくあることより幸せであることを選ぶことを決めた時から、真の平安の体験と、真実の愛の体験が始まります。

私は、張りぼてのような、中はスカスカ、外見だけ、ギラギラしていく、世間がいうところの幸せのカタチを実現させていく中で、達成感を感じるのと、ほぼ、同時期に、こんな世の中なら、いつ死んでもいいや、、、自殺する勇気は無いけれど、自然に死ねないかな?もう、生きていても、仕方ない、というような、絶望感、虚無感を日々、感じていました。

そんなある夜のこと、瞑想をしていた時、それは、突然に起こりました。

それは、一瞬、ひどく全てを諦めるような、心の死のようなものでもありましたが、でも、もし、「真の幸せがあるのなら、それを体験したい」と、まだでも、真の幸せを諦めきれず、渇望してもいる自分の中の腹の底から込み上げるような衝動を感じました。

今思えば、どこか、それは、見たこともないものなのだけど、必ず、どこかには、必ず、ある!知らないけれど、私の心のどこかが、既に知っている!覚えている!そこに還りたい、というような感覚です。

その衝動の数日後に、『奇跡講座』を紹介されて知ることになり、何故か、惹かれていき、少しずつ、読み進め、他人の『奇跡講座』解釈に陶酔したり、自己流に読んでみたり、、、何がしたいのか?目的が本末転倒で、なんのためにこれを学んでいるのか?わからなくなったりしながらも、今も、私は全く知らないということを思い知りながら、知っていく、という道半ばのところから、これを書いています。

あの日から9年経った今でも、まだまだ、このコースの教えていることを実践していくには、内容としても奥が深く、まだまだ、氷山の一角を見ているだけなのだと感じます。

だからこそ、少しずつ、少しずつ、着実に、今の自分に合ったレベルのレッスンを続けていき、鍛錬することで、見ずに信じる力、信じ抜く心の強さ、信が育ってきていることを実感します。

何が起ころうと、内なる平安を感じるには、かなりのレッスン、心の訓練がこれからも必要だと思いますが、疑心暗鬼になった時こそ、今こそ、ここで、その心の闇を直視して、もう一度、平安に戻ること。

その繰り返しの中に、真実の愛の本質を会得出来たらと思います。

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