期間限定の日々
将来、本を出版したい。
この思いをかたときも忘れることなく、日常を過ごしている。
私は記録をするのが好きだ。
好きだというか、それをしないといけないという焦燥感があるという方が正しいのかもしれない。
今、今年の、2024年の、30歳の自分が感じていることにすごく価値があると思う。
もちろん、29歳の私が感じていたことにも価値があるし、20歳の時の私が感じていたことにも価値があるし、10歳の頃に感じていたことなんて、もっともっと価値がある。
その時の気持ちは、その時の自分にしかわからないからだ。
私は愚かな人間なので、出来事をすぐ忘れる。日常にいろんな発見があったはずなのに、家に帰ってみると思い出せない。てか、普通に物覚えが悪い。人の名前なんかまじで覚えられなくて、今日も営業先で名刺をくれないで口頭で挨拶された人の名前を全く覚えていられず、その後あった偉い人に「えーっと、あの方会いました…、小柄の…女性の…」という営業マンとしてセンスの無さすぎるコミュニケーションをとってしまった。
つい先ほど、2週間前にアポでもらっていた宿題を急に思い出して、今更お客さんに「在庫切れでした」と嘘の文言とともにメールを送った。最低だ。
こんなこと、同じ職場の人に絶対言えない。この粗相は人に言ってもいいレベルなのか、引かれるレベルなのか、私にはその相場がわからない。本当にわからないのだ。
だから、職場では特に擬態をしないといけないし、わからない話題になったら一生懸命相槌を打たないといけないのだ。
今の「わからない」状態が、いつか「わかる」状態に自然となるのだろう。その日を心待ちにしている自分もいれば、そうなってしまうことで、鈍くなってゆく感性もたくさんあるように思う。
だから、年々わかることが増えていくのだから、わからないことがたくさんある今の私が感じていることは、価値があると思うのだ。わかった後には、わからなかった時には戻れない。でも、記録をしておくことで、「この時これがわからなかったんだよな」ってことは、人生に刻まれる。
だから、私は記録を残すことにとても価値があると思っている。ただ、それとはまた別の、私が持つ大きな特性「自己顕示欲」が掛け合わさることにより、「私が記録したものを世の中に出したい!!」ということになり、「本が出したい」に終着するのだ。この夢は、私の人生に活力を与える大きな道標になってくれているのだ。
…と、2年前くらいに決めたはいいものの、そのための準備が十分でないなということに最近気づき始めた。さすが30歳だ。
まず、私は自分でエッセイを出そうとしているのに、人のエッセイをほとんど見たことがない。これはいかん。まずは市場調査だ。ということで、朝井リョウとオードリー若林のエッセイを購入した。朝井リョウの方は、生意気を承知で言わせていただくと、私が高校時代に「私の文章面白いやろ!?」と思いながら書き記していたブログに文体が酷似しており、共感性羞恥で読むのが辛かった。いや、朝井リョウと高校時代の私のブログなんて比べ物にならないことはわかっているのだが、実際当人が共感性羞恥を覚えてしまっているのだからしかたない。
若林のエッセイ。これが大変良かった。これが書きたい、と思った。芸人として売れ始めた頃の記録。この生物な感じがたまらない。私もこれがかきたい。でも、物覚えが良くない私に、ここまで当時のことを詳細に思い出してかけるだろうか。無理だ。うん、じゃあ今から書いとくしかない。と思った。
で、今に至る。
東京都品川区在住、30歳。バツイチ。
最寄駅は、目黒駅から都営三田線で一駅となりの不動前駅。
まさか自分が、東京のこんなど真ん中で、人混みに揉まれ、スーパーの野菜の値段に辟易とし、わざわざそのために不動前にやってくる人が絶えないくらい人気のケーキ屋さんをご近所にもち、徒歩圏内5分のコンビニが4軒もある場所に住むことになるなんて、思ってもいなかった。そもそも離婚すると思ってなかったし。そして、ここでの生活は1年になるが、この先そう長くは続かない。私は田舎に住みたいのだ。
趣味の関係で地方へ行くことが多いので特に感じるが、東京で、またその近隣県で生まれるのって相当稀有なんだってさすがにわかってきた。日本にはまだまだこんなにたくさん土地があるのに、なんでこんな一点集中に人が集まっているんだろ。便利な反面搾取され放題だ。そんなことはわかってる。だから、期間限定にしたい。対面が好きだけど、リモートでなんでもできる時代だ。これからもっとそうなる。
だから、今の暮らしを期間限定と決めつけて、感じたこと考えたこと気づいたこと、このNOTEに残しておこうと思う。きっとそれが、いつか私の何かになる。これだけはなぜだか、確かなことだと思う。
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