詩索――始まりの記号
「ちゃんとしている」ことの呪縛。私という主体性。「私」はフィクションである。
持続的な意志、統一的な人格、計画され予見可能な未来――私という個人を作り上げるパーツ。それが自明でもあり、またある強制によって押し付けられたものであることの無自覚。主体=烙印された奴隷、という原的体験。私というものに囚われ、私という罠に嵌まり、自由であり桎梏であるところの私を起点に組み立てられる社会の不条理。自由な個人による契約という罠。アトミックな個人、それに対する集団的な大量現象としての大衆。個人か、それでなければ、一つ一つの差異を捨象した大量の塊か、そのどちらかでしか語れない現在の枠組みの限界。
多であり一である感覚。私はあなたであり、あなたは私であるという感覚。あるいは、生きとし生けるもの、存在するあらゆるものへの共感覚。私という器はひどく曖昧なものでしかなく、その境界はいつでも侵入と浸透を繰り返す。それを押しとどめ、存在するすべてのものへの全体的感覚を阻んでいるのは、我々を個人という牢獄に押しとどめ、規律・訓練によって操作し、あるいは組織し編成しようとする権力の作用に他ならない(フーコー)。自由で自立した、統一的で持続的な人格は、管理し、支配する権力の逆立ちした像に他ならない。
ヒトに限らず、生きとし生けるもの、存在するすべてのものへの共感覚は、「私」と「私でないもの」との区別を自明とする個人を前提にしては成しえず、「私」を解体したその先にある、多でありまた全である、分裂的で根源的な状態によって達しうる。そこにまた大いなる存在に触れる契機もある。「私」というこのささやかな仮の宿りは、世界に存在するどんな小さなものとも同等であり、思考の流れとともに、あるいは言葉の流れとともに、存在するあらゆる事物の間を経めぐる。そしてある時気づく。「私」というこのささやかな宿りを介して語りかけてくる存在は誰なのか。私とは誰のことなのか。「私」とは始まりでしかない。それは個々人がそれぞれ所有しているものではなく、それによって我々が語り、思考し、世界のなかを駆け巡る、その始まりの一つの記号でしかないことに。