詩索ーー方向
10年。10年という歳月が流れた。その間に私は何をしたか?何を投企してきたのか?根本的に、巡り巡ってまた元の同じ場所に帰ってきた感が否めない。私が絶望していたこと、そして今もなお絶望していることの根本は、はたして10年という歳月が経過して何か変化したのだろうか?前進したのか、あるいは前進と見せかけて、闇雲な撤退でしかなかったのか。
何かからの逃走が、そのまま開放を意味するわけではない。何かからの逃走は、すなわち、何かへの隷属の始まりに過ぎない。自分を大多数の大衆と同化させ消去すること。何者でもないことが、すなわち、一般世間への参入資格である。責任とは何だろうか。自分の人生に対する、自分の選んできた選択に対する責任?だとしたら、私は責任を放棄している。
人生は一つの方向によって示される。それが上に行くか、下に行くか、選択はそのどちらか一つでしかない。下へ下へ向かう積極的選択というものを考える。普通、世間一般の人間は、上へ上へ向かう選択だけを良しとし、下に向かう選択など想像さえしない。前進し、成功し、より良い状態になることが一つの、そして唯一の方向感覚として、ある一個人の生を蔽いつくす。しかし、それを破壊する無目的な衝動、それは合理的な、あるいは肯定的な言葉によっては何ら説明できない、そのような力が、ある人間をここではないどこかへ、逃れようもなく拉し去る瞬間がある。人生が一つの方向として与えられない限り、人は前に進むことも、今どこにいるのか把握することもできない。しかし、一つの方向として与えられた、その人生の意図が、虚構であり、まやかしでしかないことに気づいた時、彼はそこからどのような脱出を図るか。あるいは脱出などせず、嘘でありまやかしでしかないと気づいていながら、それでもどうしようもなく絶望的に、列車の運行に身を任せるように、それが運ぶ方向に身を任せるのかもしれない。
しかし、より積極的な選択としては一方向からの離脱、定められた航路から無目的なカオスへの脱落を、考えられうる最も現実的な可能性として選びうるのではないだろうか。世界への投企がゼロ距離で炸裂するとき、人生は方向でなく破壊として与えられる。ここではないどこか、への希望的漸進ではなく、いまここにおける無目的な逸脱としてリアルは降りてくる、はずだ。
さて、破滅へと運命づけられた人生は、しかしそれでもまっすぐ、まっさかさまに下へと向かうわけではない。世間はそのような衝動を、理解できないもの、排除すべきもの、目につくべきではないものとして、消去しようと躍起になる。そして、彼にできればそうしないように、ちんけな希望の残り滓を目の前にぶら下げて、彼が脇へそれないように、善意という偽りの仮面のもと、彼を監視する。
ある個人における人生の一方向とは、ある社会の一方向性、ピラミッド型階層社会における個人の取りうる布置の一方向性と正確に呼応する。彼は逃れようもなく社会に取り込まれ、その社会が規定する配置のパターンに応じて、彼の取りうるその中での軌跡もあらかじめ規定される。だから彼が試みるカオスへの跳躍も、結局は挫折に終わる可能性がはるかに高い、と言わねばならない。それでもなお跳躍を試みる者は、世間による恐るべき摘発と復讐に晒されるか、それともどこでもない社会の暗部へと消えて得なくなるか。いずれにしても逸脱へのかすかな予感だけが、彼に人生へのリアルを与える。
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